REVIEW

書評

『OPEN-アンドレ・アガシの自叙伝』(アンドレ・アガシ著/川口由紀子訳)

2023.06.26 / 長池達郎(テニス偏愛編集者)

ゴールデンスラマーの衝撃的告白

テニス選手の自叙伝・評伝で、これほど読みごたえのある本にはなかなかお目にかかれない。いやテニス選手のみならずスポーツ選手に限定せずとも、トップクラスの面白さではないか。本書はアンドレ・アガシの心の旅路をなぞりながら、プロテニス界の内幕について詳細に物語り、かつらの着用をカミングアウトしたり、ライバル達との確執や華麗なる女性遍歴についても包み隠さず、読みどころがふんだんにある。

生涯ゴールデンスラム(グランドスラム4冠と五輪の金メダル獲得)を達成したアンドレ・アガシは、ピート・サンプラスと共に一時代を築いたテニス界のレジェンド。16歳でプロに転向し、18歳で世界ランク3位になるなど、若くして華々しい活躍を遂げ、大きな注目を集めた。パワフルなライジングショットを武器に並みいるトッププレイヤーを撃破。ロックスターのようなワイルドなロングヘアーにピアス、カラフルなウェア、デニム地のショートパンツなど、超個性的なスタイルで異彩を放ち一躍スターダムにのし上がった。オフコートでも、歌手で女優のバーブラ・ストライサンドとの交際、女優ブルック・シールズとの結婚・離婚、シュテフィ・グラフとの結婚などで世間を賑わせた。とにかく何かと目立つ存在だった。

意表を突く出だし

プロテニス史上に燦然と輝く戦績の回顧はもちろん、ゴシップ的な話題にも事欠かないアガシの自叙伝は、その華やかに彩られた現役生活とは対照的に、陰鬱で重苦しいトーンで幕を開ける。現役最後の大会となった2006年の全米オープン、激しい背中の痛み、蓄積された心身の疲労とトラウマに苛まれてホテルの部屋の床に横たわり、疲弊しきったアガシの姿が詳細に描かれる。よもやの意表を突く出だしだ。

著者の名はカバーのクレジットではアガシとなっているが、実際の筆者はピューリッツァー賞受賞者としても知られるJ・R・モーリンガー。最近では、ヘンリー王子の『SPARE』のゴーストライターを務めるなど、「世界で最も高い報酬を得るゴーストライター」と呼ばれる。本書の完成度の高さはやはりモーリンガーの力量に負うところが大きいだろう。

まずは冒頭の「つかみ」が実に上手い。映画のコマ割りのようにテンポよく話は展開されていくが、驚くべきエピソードが次から次に明かされる。「テニスは大嫌いだ」と言い放ち、先天的な脊椎すべり症を抱えていたことや、慢性的な背中の痛みを抱え、痛み止めのコルチゾン注射を打ちながら試合に臨んでいたことなどを矢継ぎ早に告白。劇的な描写と相まってページを繰るペースが速まる。

600ページ超の部厚な本だが、行き届いた取材と巧みな構成、緊密でスリリングなストーリーテリング、そして表現力豊かな文体で読者を飽きさせない。プロローグ(?)には「ジ・エンド」、エピローグ(?)には「ザ・ビギニング-新たなる生活の始まり」と倒置の効いたタイトルが付されている。この辺のセンスのよさにも感心させられる

トラウマの原因

全編を通じて通奏低音のように語られるのが幼少の頃から刻まれたトラウマだ。アガシは父親マイク(元ボクシング選手。イラン代表として2大会、五輪に出場)の超スパルタ指導によりテニスを叩きこまれたのは有名な話だが、幼いアンドレが父から課された練習の数々は過酷極まりないものだった。父が改造したアガシが「ドラゴン」と呼ぶボールマシーンによる練習では、マシーンから繰り出される時速110マイル(177km/h)のボールを毎日2500個打たされたが、それはわずか7歳の頃から始まった。父マイクは後年、世界の頂点に立つことになる息子のテニスの礎を築くと共に、消し去ることのできない傷を心に負わせていた。

自叙伝では異例の露悪的と言っても過言ではない仰天エピソードも登場する。9歳の時に父に「賭けテニス」の手伝いをさせられたことや、12歳(!)の時にアメリカのエリート・ジュニアチームのメンバーとしてオーストラリアに遠征した際、帯同したコーチから「ギンギンに冷えたビール」を供され飲み干したこと、覚せい剤のメタンフェタミンを吸入したこと、ATP(男子プロテニス協会)の薬物検査に引っかかった(結局、処分が下されることはなく放免された)ことなど、違法性や虐待の疑いのある過去まで明かされる。

アガシは14歳でニック・ボロテリー・テニスアカデミー(現・IMGアカデミー)に送り込まれ、ジュニアの世界で頭角を現していく。当時はニック・ボロテリーが世界的な名声を博す前だったが、アガシの活躍と軌を一にしてボロテリーはビジネスを拡大し、名声を築いていく。ボロテリーはアガシのナイキとの大型契約やラケットメーカーとの契約にも関わることになるが、長年プリンスのラケットを愛用してきたアガシに無断でドネーと契約を交わし、トラブルを引き起こすなど、アガシとボロテリーの確執も赤裸々に描かれる。

爽やかなエンディング

テニスファンとしては、コーチを務めたブラッド・ギルバート、トレーナーのギル・レイエスら「チーム・アガシ」のメンバーのサポートの内幕と厚い友情の描写が印象深いだろう。毎週のように移動を続け、世界中を飛び回って大会に出場しなければならないプロテニスツアーは、過酷で孤独な世界だ。ガラス細工のようにデリケートなアガシを励まし、慰め、支え続けたチームの存在抜きにはアガシの成功は語れない。中でもレイエスの献身ぶりは感動的ですらある。将来、アガシの生涯が映画化されることがあれば、レイエスが準主役に相応しい。

前妻のブルック・シールズやバーブラ・ストライサンド、現妻のシュテフィ・グラフとのなれ染めや交際についても多くの紙幅が割かれている。とりわけ印象深かったのは、アガシとシールズの結婚生活のすれ違いだ。アガシは優勝の喜びを共に分かちあい、敗戦時には、時に慰め、時に適度な距離を取り見守ってくれることを伴侶に求めていた。しかし、シールズは仕事が多忙で、エンタメ業界の人々との交遊にも積極的だったため、アガシの期待には応えられなかった。仕事を得るためには業界内の人間関係の構築も重要で、社交にも時間を割かざるを得ない米エンタメ業界人。シールズも例外ではなく、二人の関係が破綻せざるをえなかったのは、必然だったのかもしれない。

一方、グラフはアガシとよく似た境遇(グラフも幼少の頃から父親に指導を受け、若くしてトップ選手になった)に育ち、ツアーでサバイバルする大変さを身をもって知っているだけに、絶妙にアガシの気持ちに寄り添い、時には静かに見守り、支え続けた。そんなシュテファニー(アガシはそう呼ぶ)にアガシは感謝を惜しまない。アガシとグラフは共に生涯ゴールデンスラマー(グラフは男女を通じて唯一、同一年に達成している)でもあるが、お互いにとってこれほどの良き理解者はいないのではないか。

読後は温かい感情に包まれる。エンディングの公営のテニスコートでアガシ夫妻がラリーをするシーン、仲睦まじい二人のネット越しのやり取りが微笑ましい。テニスによって幾多の試練や苦難にも見舞われたが、数々の栄光と得難い伴侶を獲得したことで、アガシのみならずグラフも実り豊かな人生となったことを暗示している。起伏に富んだアガシの半生を描いたストーリーは、苦悩に満ちた陰鬱なシーンで始まり、グラフとのハッピーエンディングで幕を閉じる。この見事なコントラストも実に巧みだと感服せざるをえない。

『OPEN―アンドレ・アガシの自叙伝』
アンドレ・アガシ著/ 川口由紀子訳
出版社:ベースボールマガジン社
発売日:2012年5月1日
単行本:622P
価格:2,090円(税込)
ISBN978-4-583-10472-0


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