2026全仏オープン・レビュー 赤土で流した涙を払拭する初の栄冠

ローラン・ギャロスの座右の銘
勝利はもっとも忍耐強い者にこそもたらされる----。
センターコートの1階席上部を覆う長い庇(ひさし)の外側に大きく記された文言は、フランス語と英語それぞれがコートをはさんで向かい合うようにデザインされている。会場の名前の由来である第一次世界大戦中の英雄パイロット、ローラン・ギャロスが皇帝ナポレオンの残した名言を自らの信条としたもので、飛行機のプロペラにも刻んだという。その言葉は、過酷な赤土の最高峰を制する者への賛辞として、新装なったセンターコート、フィリップ・シャトリエで2022年に蘇った。
この称号を14回も得たラファエル・ナダルが引退し、男子現役選手の中にはたった3人を残すだけだ。16年、21年、23年と3度制した元王者ノバク・ジョコビッチ、15年にそのジョコビッチを破って頂点に登り詰めたスタン・ワウリンカ、そして昨年2連覇を達成したカルロス・アルカラスである。
そのアルカラスが右手首の故障で欠場し、全仏オープンのタイトルこそまだないものの本命とされたヤニック・シナーが、猛暑の中の体調不良でまさかの2回戦敗退。史上最多25回目のグランドスラム制覇への道が一気に開けたはずのジョコビッチも、3回戦で19歳の新鋭ジョアン・フォンセカに屈し、今大会は序盤から荒れに荒れた。

ダニール・メドベージェフなど他のグランドスラム覇者も残っておらず、2週目を待たずに新チャンピオン誕生が確実になるという異例の事態だ。しかしその先の幾通りもの架空のストーリーの中で、おそらく最も多くのファンが情を寄せたのは、グランドスラムの決勝で3度敗れているアレクサンダー・ズベレフの初栄冠というクライマックスだったに違いない。
18歳でグランドスラムデビュー、20歳でマスターズ1000の初タイトルを獲得し、21歳でツアーファイナルを制覇。まだビッグ3が健在の時代から、将来の王者と目されていた。これまでにマスターズ1000のタイトルは7つ、21年にツアーファイナルも再度制し、東京オリンピックでは金メダルも獲得したのに、グランドスラムのトロフィーにだけはどうしても届かなかった。
20年の全米でドミニク・ティームに、24年の全仏ではアルカラスに、いずれも逆転で敗れ、25年の全豪でシナーにストレートで屈したあと、「グランドスラムを獲れなかった最高の選手と言われることは望まない」と固く言いきった。過去にはアンディ・マレーやゴラン・イワニセビッチ、アンドレ・アガシなど、最初のグランドスラム決勝から3度以上連続で敗れた名選手たちがいるが、彼らはのちに悲願を達成している。しかし現状に目を向ければ、シナーとアルカラスの二強時代は強固になる一方で、特にシナーに対しては前哨戦のマドリッドで9連敗目を喫しており、このところはセットも取れていなかった。

悪夢の負傷で悲鳴を上げた夜
「グランドスラムで初めて優勝候補の筆頭になる気分はどうだい?」
突如プレッシャーにまつわる質問が増えたのは無理もない。
「気持ちもプレーもよくコントロールできている」とズベレフは毎回さらりと答え、4回戦でラッキールーザーのイェスパー・デヨング、準々決勝で19歳のラファエル・ホダル、準決勝は20歳のヤクブ・メンシクという若い挑戦者を次々と退けていった。
しかし、シナーの消えたトップハーフで「チャンス到来」にぎらつく面々を勝ち抜いてきた、同じイタリアの24歳フラビオ・コボッリは難敵だった。グランドスラム史上初の準決勝でのイタリア対決は、マッテオ・アルナルディの体調不良による棄権で実現しなかったが、デビスカップ3連覇中の強国イタリアの底力を誇示するように、実績で圧倒的に上回るズベレフに食い下がる。試合は思いがけずもつれた。
「これまでの試合のように安定したプレーができなかった。ナーバスになる場面もあり、第4セットでは痙攣(けいれん)もし始めた。精神的なものが原因だったと思う」
第4セットをタイブレークで失ったズベレフだが、逆転負けした過去2度の決勝の記憶が蘇る代わりに、「痙攣のおかげで開き直れて、より攻撃的になれた」というのだからわからないものだ。最終セット、逆に疲れ切ったコボッリを6−1と突き放して長い旅を締めくくった。
トロフィーをぎゅっと抱きしめてチャンピオンスピーチに立つズベレフは、「このコートでは最高の瞬間も最悪の瞬間も経験した。4年前、僕はあのコーナーで倒れていた。靭帯(じんたい)が7本切れて、2本の骨が折れた状態で……」と、悪夢が起こった場所を視線で示した。2年ぶり14回目の優勝を狙うナダルと死闘を繰り広げていた準決勝のことだった。あの夜のズベレフの悲鳴は、目撃した人々の耳に今も残る。
再起は不可能とさえ危惧されたが、7カ月後にコートに戻り、ローラン・ギャロスでは準決勝まで勝ち進む奇跡の復活。子供の頃から糖尿病を患いながら戦ってきたことも公表し、世間を驚愕させた。忍耐強くあきらめなかった者――誰よりもふさわしい赤土の新王者だった。

2026全仏オープン男子シングルス決勝
〇ズベレフ 6-1、4-6、6-4、6-7(5-7)、6-1 コボッリ
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格別な注目を集めた新旧女王対決
男子のビッグネームが1週目にバタバタと消えていく中、女子の新旧女王対決が脚光を浴びた。第1シードのアリーナ・サバレンカと第16シードの大坂なおみの4回戦。単に豪華なカードというだけではなく、女子の試合としては3年ぶりとなるナイトセッションに組まれたからだ。
全仏でナイトセッションが導入されたのは2021年だが、全米や全豪と違って開始時刻が20時半と遅く、1試合しか行われない。そこに男子の試合ばかりが入ることに対して初年から問題視する声が上がっていたが、5セットマッチで見応えのある男子の試合を入れたいというのが運営側の考えだ。
女性初のトーナメント・ディレクターを務める元世界1位のアメリ・モーレスモは、批判に対して「一般論として男子のテニスのほうが魅力的で集客力がある」と答えて火に油を注いだのだが、方針は変わっていない。女子のナイトマッチは1大会に1試合ペースで、一昨年と昨年は1試合も行われなかった。
大坂は今大会も派手なファッションで視線を集め、序盤戦の雑多な話題にひときわゴージャスな色を添えていた。赤土の上を引きずる黒いロングドレスで登場し、脱げばキラキラ光るスパンコールが無数にちりばめられたゴールドのウェアときた。加えて、もう一度グランドスラム制覇を狙える存在に進化しているからこそ、サバレンカ戦は注目の夜の試合に抜擢(ばってき)されたのだろう。
全仏では3回戦突破も初めてだった大坂は、そんなことを忘れさせるくらい赤土の上をナチュラルにスライドし、心地よくプレーしていた。敗れはしたが、一番の狙いである全米に向けて必要な手応えを得たに違いない。
全仏初制覇に向かって一つの山を越えたサバレンカだったが、準々決勝でディアナ・シュナイダーに6−3、4−1から信じられない逆転負けを喫した。これで女子もグランドスラム・チャンピオンが全滅。波乱の大会の顔になったのが、予選から初の本戦を決勝まで駆け上った114位のマヤ・フワリンスカだった。
全仏V4の元女王イガ・シフィオンテクと同じポーランド出身で、年齢も同じ24歳。左利きを生かしたトップスピン、絶妙なドロップショット、緻密にコントロールされたロブなど、クレーを勝ち抜くスキルを備え、スピードと忍耐力もある。準決勝までトップ20の誰とも対戦しなかったが、1回戦でパリ五輪金メダリストのジェン・チンウェン、3回戦では元世界3位のマリア・サッカリを翻弄し、準決勝ではサバレンカを破ってきたシュナイダーの自信も驚異の粘りで粉砕した。オープン化以降のグランドスラムで予選出場選手の決勝進出は、21年の全米で頂点に上り詰めたエマ・ラドゥカヌに次いで2人目という快挙だった。
第2シードのエレナ・ルバキナが2回戦で、第3シードのシフィオンテクが4回戦で姿を消したボトムハーフからは、第8シードの19歳ミルラ・アンドレーワが快勝に次ぐ快勝で勝ち上がってきた。朗らかで愛嬌あるキャラクターだが、たびたび物議をかもすのがコートでの悪態だ。3月のインディアンウェルズでもラケットを破壊し、後味悪く去っていた。
「ミルラは練習中でもときどき感情を抑えられなくて、本当に難しい」と苦笑する元世界2位でウィンブルドン・チャンピオンのコンチータ・マルティネス・コーチだが、それでも「私たちの話にきちんと耳を傾けて、一生懸命に努力するときの彼女の可能性は無限大」と信じ、昨年初めから女性のスポーツ心理学者をチームに招いた。
その成果は少しずつ表れ、今大会で取り乱すシーンは見受けられなかった。
「私の一番いいプレーを見てもらいたいし、コートでかっこよく見られたい。試合中に苛立ったり怒ったりするところじゃなくてね。ロジャーのようなふるまいを目標にしたいの」

伏兵の活躍が浮き彫りにした賞金還元問題
ロジャー・フェデラーとはまた偉大な目標を掲げたものだが、それが功を奏したか、初対戦となったフワリンスカとの決勝も、ブレーク合戦の第1セットは辛抱が切れそうなところでよく耐えた。予選から10試合目に挑むフワリンスカはさすがに疲れを隠せず、自慢のコントロール力でも勢いづくアンドレーワに対抗しきれなかった。
19歳と29日での全仏優勝は、1992年に18歳で3連覇を果たしたモニカ・セレシュ以来の若さとなる。24年前、セレシュに与えられた優勝賞金は247万フラン、当時のレートで約6,000万円だった。ちなみに男子は約6,500万円とまだ開きがあったが、その後女子テニスは男女同額を勝ち取るなど目覚ましい発展を遂げ、グランドスラムの繁栄とともにその賞金額は上昇し続けてきた。今年、ズベレフとアンドレーワが手にした優勝賞金はいずれも280万ユーロ、日本円にして約5億2,000万である。
振り返れば、賞金の分配率の問題で、選手組織と大会側の溝が埋まらない中での開幕だった。今年の全仏オープンの賞金が公表された直後のイタリア国際では、選手たちから不満の声が噴出し、サバレンカやシナーなどは大会ボイコットの可能性まで示唆した。彼らが指摘するのは、大会の収益の増加が賞金に反映されていないという点だ。選手たちはATP(男子テニス連盟)及びWTA(女子テニス協会)の水準である22%を要求しているが、今大会は前年の収益を元にした分配率が14.3%だった。
サバレンカは「自分のために言ってるのではない。もっと下のランキングの、経済的に厳しい選手たち、ケガから復活しようとしている選手やこれからの世代のために、ナンバーワンという立場の私は先頭に立って闘う必要がある」と使命感を示した。もちろんこの運動でリーダーシップをとる他のトップ選手も同様だ。ズベレフは「トッププレーヤーだけじゃなくて、たとえば世界ランキングが200位でも非凡な選手はいる。そういう選手がやっと生活できるような状態だったり、赤字生活だったりする。世界最大のトーナメントの支援で、テニスは変わることができる」と運動の意義を説明した。
フワリンスカは格好の例となったかもしれない。今大会で準優勝賞金140万ユーロ(約2億6,000万円)を獲得したが、これは彼女がこの10年間で得た賞金全額の約2倍にあたる。ひょっとしたら一発屋で終わるかもしれないが、たとえそうだとしても、世界最高の舞台であれだけファンを沸かせることのできる才能を持った選手がこれまで埋もれていたのだ。
続くウィンブルドンでも全米でも選手たちは、テニス界全体のためにあきらめず訴えかけるという。ムーブメントの先にはどんなテニスの未来が開けるのだろう。コート外の戦いも注視される今後のグランドスラムである。

2026全仏オープン女子シングルス決勝
〇アンドレーワ 6-3、6-2 フワリンスカ
バナー写真:(上)表彰式で優勝カップを掲げ、雄叫びをあげるズベレフ (下)コーチのコンチータ・マルティネス(右)とフォトセッションに応じるアンドレーワ(左) 撮影:真野博正

