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テニス名プレイヤー列伝

名プレイヤー列伝 第13回 モニカ・セレシュ

2026.06.24 / 武田 薫(スポーツライター)
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刺傷事件で運命が暗転したフォア・バック両手打ちの悲劇の女王

ベルリンの壁が音を立てて崩れたのは1989年の暮れだった。激動の欧州再編を先取りするように、女子テニス界は勢いづいていた。東レ・パンパシフィック・オープンが始まったのが84年、旗揚げから2年連続で優勝を飾ったのがブルガリアのマニュエラ・マレーバだ。華奢(きゃしゃ)でシャイな美少女は日本のファンを虜(とりこ)にしながら3年後、20歳であっさり結婚してしまう。その87年、2歳下の妹カテリナがジャパンオープンで優勝。マレーバ姉妹の出現で、それまでヨーグルトぐらいのイメージしかなかったブルガリアの知名度が上がった。カテリナの6歳下、マグダレナのプロデビューは14歳の89年で、93年の全豪には3姉妹が揃ってシード入りした。しかし、この大会の話題を独占したのはモニカ・セレシュだった。

91年にシュテフィ・グラフから女王の座を奪い、全豪、全仏、全米を制覇すると、92年にはウィンブルドン(準優勝)を除くメジャー3大会連覇の“準グランドスラム”、……出場15大会で優勝10回(72勝5敗)と不動の地位を固めつつあった。大会出場3年目となる93年全豪で再びグラフを退け3連覇と、時代はユーゴスラビア出身の19歳の掌(てのひら)で踊っていた。

セレシュはその3月から4大会を欠場する。ウィルス感染症が理由だったが、今度こそ年間グランドスラムを……万全の準備を整え、全仏の前哨戦、4月末のドイツ、ハンブルクオープン(シチズンカップ)に向かった。ドイツはグラフが君臨する聖域だ。ハンブルクは87年から6連覇し、ベルリンのジャーマンオープンも90年を除き、86年から94年まで8度優勝。その90年こそセレシュが初めてグラフを破った大会だった。ゲンのいいドイツで再び勝利を収めるか……マレーバ3姉妹とともに順調に8強に進み、4月30日の準々決勝の相手はマグダレナだった。まだ陽の残る午後7時前、第1セットを6-4で奪い、第2セットも4-3とリード。チェンジオーバーの90秒のブレークから立ち上がろうとした時、男が身を乗り出して背後を襲った。余りにも突然だった。観衆8千人の面前で刃物で背中を刺されるという凶行が起きた。兄ゾルタンが駆け寄り、マグダレナはベンチで呆然としていた。ひたむきにボールを追いかけてきた無垢(むく)な少女の夢を砕いた、テニス史上最悪の事件だった。

襲った36歳のドイツ人、ギュンター・パルシェは熱烈なグラフファンだった。グラフは87年全仏からゴールデンスラムの88年を挟んで90年全米まで、メジャー15大会で優勝9回、決勝に進まなかったのは1度だけ(90年ウィンブルドン)。ボリス・ベッカーと共にドイツをテニス王国に押し上げた。その牙城がベルリンの壁の崩壊を待っていたように揺らぎ始めた。4歳下のセレシュが89年全仏から93年全豪までのメジャー16大会で優勝8回、その間、決勝でグラフと4度対戦し3勝。グラフが危ない……子供でもそこまで短絡的にならないだろう。ギュンターは後に精神異常と判断され、保護観察処分が下される。事件は単純でも、背景は複雑だった。

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179cmの長身から繰り出すサーブは重く、威力があった(1989年全米オープン) T.Nakajima/Mannys Photography

選手生命を脅かしたPTSDの後遺症

テニスは選手と観客の垣根、アマプロの壁を可能な限り低くしながら普及した。テレビ中継や航空機などの技術革新の波に乗って比類のない世界ツアーを築き、一体感、すなわち「世界は一つ」という時代の幻想に同調しながら市場を拡大させた。繁栄は女子テニス界の低年齢化を招き、鉄のカーテンを開きかけた旧社会主義圏をこじ開けた。セレシュであり、マレーバ姉妹であり、マルチナ・ヒンギス(国籍はスイスだが、生まれはチェコスロバキア)、アンナ・クルニコワ、イバ・マヨリ、マリア・シャラポワら東欧勢の活躍へと繋がっていく。事件後に、チェンジオーバーで警備員が立つようになったが、フェンス越しのファンとの交流は続き、センターコートの決勝戦にストリーキングも飛び出している。

傷は左肩甲骨下でわずかに脊椎(せきつい)を外れ、深さは2cm弱。全治3カ月とされたが、PTSD(心的外傷後ストレス障害)もあって、コートに戻るまでに2年半の歳月を要した。よみがえる恐怖と戦いながら95年8月のカナダオープンで復帰。全米決勝でグラフに敗れるまで失セット0を続け、年明けもシドニー、全豪で優勝して完全復帰のように見えた。だが、心の傷は目に見えない。それ以降、メジャー優勝はない。90年からヨネックスのラケットを使用し、たびたび来日している。東レPPOのディレクターだった野地俊夫は、後ろに人が立つのをそれとなく避けるセレシュに心が痛んだと振り返る。

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事件発生から4カ月後、初めて公の場に姿を現したセレシュ(中央)。全米オープン開催期間中、会場内で記者会見に応じたが、時折言葉に詰まり涙ぐむ場面も。体の傷は癒えても心の傷は容易には癒えず、トーナメント復帰までに2年の歳月を要した 撮影:真野博正

モニカ・セレシュは1973年12月2日、現在のセルビア北部の都市ノビサドで生まれた。旧ユーゴスラビアは7カ国と国境を接した多民族国家で、一族はハンガリー系である。父のカロリは放送局でディレクターをしながら時事漫画を描いた文化人で、大学時代はスポーツサイエンスを学び、三段跳びの代表選手でもあった。息子のゾルタンにテニスを教え、8歳上のゾルタンには妹以上の素質があったという。同年代のボリス・ベッカー、ステファン・エドバーグとプレーしている。ただ、80年代初頭はテレビ中継もなく、ノビサドにあるコートはわずか4面。テニスはマイナースポーツの域を脱しておらず、父親が特に指導に熱心だったわけでもない。娘に対しては、アパート前の駐車場にロープを張り、「トムとジェリー」を描いたボールを渡し、ネットの向こうに箱を置いて打ち込ませ、ときおり3階の窓から見ると、モニカはいつまででも打ち続けたという。素質は兄、練習の虫は妹、そんな家族だった。

娘はすぐに国内では敵なしになり、85年、11歳でのジュニアテニスの登竜門、オレンジボウル国際テニス選手権(フロリダ州マイアミ)優勝(12歳以下)が転機になった。名伯楽のニック・ボロテリーの目に留まったのだ。経済的理由からカロリはアカデミーへの勧誘を当初、断ったが、ニックから奨学金提供の申し出があり、モニカは86年に兄と共にニック・ボロテリー・テニスアカデミー(現・IMGアカデミー)に入る。その半年後に両親もフロリダへ移り、そこに時代の空気が流れている。

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フォア、バック共に両手打ちでひたすらハードヒットするプレースタイルはひと際異彩を放つものだった。(上)1993年全豪オープン 撮影:真野博正 (下)1990年全米オープン T.Nakajima/Mannys Photography

東欧の転換期と重なるセレシュの台頭

グラフは12歳だった81年にオレンジボウル優勝(12歳以下)、82、83年のヨーロッパジュニア選手権連覇(14歳以下)を果たし、13歳でプロ転向した。84年には世界ランク22位、85年にトップ10入り。話題にはなったが、すぐに時代の寵児(ちょうじ)扱いされる昨今のような騒ぎにはなっていない。85年の全仏、岡川恵美子との1回戦は俗に「田舎のコート」と言われる小コートに立ち見客がポツポツという程度だった。ヨーロッパの外れ、ノビサドではほとんど話題にならなかっただろう。このグラフにセレシュの足跡を重ねると興味深い。

セレシュはグラフの4年後にオレンジボウル、グラフが連覇した3年後にヨーロッパジュニアで優勝、86年にフロリダに渡ったそのシーズンにグラフは飛躍する。ヒルトンヘッド決勝でクリス・エバートを倒した初優勝から8大会で優勝。その暮れにカロリはフロリダ移住を決意し、グラフはさらに87年全仏でマルチナ・ナブラチロワを破ってメジャー初制覇~ナンバーワンへと俄然注目を浴び始めた。そして、東欧は大きな転換期を迎えていた。

ソ連のゴルバチョフ政権が「ペレストロイカ」を唱えて改革に乗り出したのが85年で、冷戦崩壊の兆しが見えた翌年4月、チェルノブイリ原発事故が発生した。ポーランド、ハンガリーで民主化の流れが加速し、ユーゴスラビアの内戦が本格化するのは91年だが、89年の東欧革命へ向かう旧大陸のうねりはテレビを通じて広がっていく。カロリはマスコミの人だ。フロリダでの家族合流は、グラフの躍進とチェルノブイリが攪拌(かくはん)した変革の波に押された決断――そこでカロリは新たな「仕事」を見つけた。

当時のボロテリー・アカデミーには、オリジナルメンバーのジミー・アリアスを筆頭に、アンドレ・アガシ、ジム・クーリエがいた。アガシのデビューはセレシュが入った86年で、アカデミーに来てカロリは驚いた。コーチたちがモニカの両手打ちを矯正しようとしていたのだ。それからカロリは娘のテニスに誰の口も挟まさせず、練習コートを幕で隠したとまで言われる。

セレシュの強く深く角度のある打球の土台は、人並外れた集中力だ。左利きの両手打ち(フォアもバックも両手打ち)は、左右でグリップを持ち替えない特殊な打法だが、放任主義で身に着けたスタイルをカロリは防波堤となってそのままにしたかったのだ。

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1995年全米のファミリーボックスで娘を応援する父カロリ(前列左から2人目)と母エスター(同3人目) 撮影:真野博正

最強の後ろ盾だった父親の死

破竹の勢いのデビューだった。88年3月、14歳でのツアーデビュー戦は2回戦でエバートに敗れたが、3戦目のニューオーリンズは準決勝まで進んで年明けにプロ転向。同年、ヒューストンでエバートを破って15歳で初優勝を飾り、初のメジャー挑戦だった全仏は準決勝でグラフに敗れた。この年、グラフと3度対戦し、いずれも敗れ、それでも年末ランキングは6位に。前述のように90年のジャーマンオープン、全仏で立て続けにグラフを倒し、最終戦のツアーファイナルを含め9大会に優勝、91~92年の黄金期へと向かっていく。

ボロテリー・アカデミーは全盛期だった。88年にアガシがトップ10入りし、クーリエもトップ50を突破。ベッカーとエドバーグの欧州勢が主導するポスト・マッケンロー時代で、アガシに夢中だったニックにセレシュ父娘を構っている時間はなかっただろう。カロリと不仲だったというより、場所だけ提供して「お好きにどうぞ」だったのではないか。コーチズボックスで観戦するカロリは一風変わったコーチだった。相手のエースに拍手を送る……そんな姿が、93年のハンブルクの現場にはなかった。

ハンブルク事件には複雑な要素が重なった。祖国の内戦が深まり多民族国家が分裂していく過程で、世界的なスター誕生の宿命だろうか、政治的背景まで取りざたされた。いきなり現れた天才少女への戸惑い。グラフも父親の指導を受けたが、彼女にはドイツ協会のあらゆる援助があった。セレシュには何のバックアップもなかった。不可解は時に不愉快につながる――92年のウィンブルドンの「うなり声」への反応がそれで、声がうるさいとナタリー・トージア、ナブラチロワが抗議。マスコミは騒音測定器まで持ち出す騒ぎで、決勝のグラフに完敗した。「どうして、みんな急に言い出したのか……」さらに、国際テニス連盟は92年のバルセロナ五輪への出場を認めなかった。フェデレーションズカップの実績がなかったためだが、そもそも他に選手のいない混乱の祖国がフェド杯のために代表チームを結成できただろうか。

テニス界の番外地から来た「異邦人」を見る目は冷たく、自分たちを守るためか、一家に謎めく行動もあった。91年に全豪、全仏を制しながら、ウィンブルドンのドロー直前に棄権を発表した。シンスプリント(脛骨の故障)が原因だったが、理由が明確にされず妊娠説まで飛び出し、マスコミを避けてドナルド・トランプ(第45・47代米国大統領、当時は不動産業の実業家)の別荘に避難したことも。こうした混乱の中で、父娘の絆はさらに強まった。「コーチであり、最大の友人」という父親に問題が発生したのが、93年の春だった。ハンブルクオープンの最中、カロリは検査を受け、癌との戦いが始まる。

セレシュの負傷は8カ月で治ったと振り返っている。ただ、その間の世間の動きは心の傷を更に深くした。犯人への“寛大な”処分、淡々と大会を継続した運営、ランキング1位を凍結する案にガブリエラ・サバティーニを除くトップ選手全員が反対したことなど。

当時の最大のライバルはグラフでもナブラチロワでもなく食事だったとその後、明かしている。もともとあった摂食障害が悪化し、体重が9㎏増加。父親の胃癌治療が始まると、さらに5㎏増加。父親の回復と共にモニカも再起に乗り出し、94年3月には米国市民権を獲得、95年にコートに戻り、準優勝の全米、優勝した96年の全豪のコーチズボックスにカロリの姿があった。しかし、病状は再び悪化し98年5月に他界する。

父を失った時、セレシュは24歳。まだまだ戦える年齢だった。復帰した96年に5大会に優勝、97年は3大会、98年は2大会、ランキングもトップ10を維持したが、時は冷酷に歩を進めていた。97年、16歳のマルチナ・ヒンギスが準グランドスラムを達成し、98年の全米決勝でヒンギスに敗れたヴィーナス・ウィリアムズは試合後に言った。「妹の方が上よ」セレナ・ウィリアムズの登場は98年。新たな時代が到来していた。もしカロリが健在だったら、愛娘にどんな戦術を授けたか。もし内戦がなければ、フロリダに移住していなかっただろうか。しかし、あらゆる「もし」は一つの「もし」の前に沈黙する。もし、あの事件がなければ……。

モニカ・セレシュは03年の全仏1回戦でナディア・ペトロワに敗れ、それが公式戦最後の試合になった。08年に正式に引退を表明。翌年、父親ほど年の離れたフロリダの実業家トム・ゴリサノと結婚している。

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93年の事件後、初めてのグランドスラム大会出場となる95年全米で決勝進出、グラフ(中央)と対戦し、準優勝。グラフはライバルの復帰を心から喜び、表彰式では柔和な笑顔を見せた。セレシュもリラックスした様子で、二人の関係は事件の後遺症を感じさせないものだった 撮影:真野博正

バナー写真:グランドスラム最後の優勝となった全豪オープンの表彰式で笑顔を見せるセレシュ 撮影:真野博正

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