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テニス名プレイヤー列伝

テニス名プレイヤー列伝 第7回 ビヨン・ボルグ

2024.04.27 / 武田 薫(スポーツライター)

プロテニス界の隆盛を築いた北欧神話のヒーロー

外信部のテレックスがカトマンズ(ネパール)からの特電を叩き始めたのは、1983年2月24日の深夜だった。「ビヨン・ボルグが引退を表明」。ボルグはその前日までタイのバンコックで行われたエキシビションマッチに参加し、そこでコーチのレナート・バーゲリンが引退の可能性を示唆していた。一行はバンコックから休養目的でカトマンズに向かい、母国スウェーデンから飛んできた記者が本人の口から意思を聞き出した。

若干26歳での引退表明を伝えた外電は、最後をこう結んだ。

「最後の公式戦は3月のモンテカルロ、最後のプレーは4月の東京、サントリーカップ」

サントリーカップは男子のトップ選手4人を集め、代々木体育館で行われた2日間の興行で、世界のテニスに触れる貴重な機会として人気があった。その年はボルグ、ジョン・マッケンロー、ジミー・コナーズに、全豪を2度制したヨハン・クリーク(南ア)という豪華メンバー。テニスは人気のエンターテインメントで、ダフ屋がたむろする光景は珍しくなかった。この年は国内外のメディアが押し寄せ、カメラマンが早朝から場所取りの列を作り、テニスブームを牽引したヒーローの“最後”を見守った。

東京で行われた「引退セレモニー」

初日はボルグがマッケンローとの夢の対決を制し、2日目の決勝でコナーズに案外あっさり敗れると、場内の照明が落とされた。引退セレモニーの始まりだ。

男女のエキシビション大会「グンゼワールド」も運営していた大会ディレクターの進藤重行は、そもそもポーランドのアンジェイ・ワイダの助監督を務めた生粋の映画人だった。日本伝統のアマチュアリズムではプロ興行、ショービジネスの運営は荷が重かったのだが、この時の演出は凝り過ぎた。暗いコートにスポットライトが浮かび、ロマンチックな曲が流れる中、夫人のマリアナ(旧姓・シミオネスク)と腕を組んだボルグがキャンドルを手にコートサイドを1周……華やかなキャリアを支えたラブストーリーの演出にしては、2人の表情は硬かった。関係は既に冷え切っていて、翌年に離婚。2024年4月14日現在、世界ランク397位のレオ・ボルグ(20歳)は、3番目の妻との間に生まれた、ボルグにとっては次男である。

26歳の引退はいかにも早い。ボルグ以前、例えば、アーサー・アッシュは36歳まで4大大会に出場し、さらに前のケン・ローズウォールの引退は44歳(非公式戦含む)。以後のステファン・エドバーグは30歳、ピート・サンプラスがラケットを置くのは32歳。迷いはあった。翌年に3試合だけプレーし0勝、91年にツアー復帰を試み3年間で12試合に出場して0勝(3セットを奪っただけ)に終わっている。

カトマンズではこう打ち明けた。

「もうテニスにすべてを捧げることができなくなった。頂点を目指す喜びを感じることはできなくなった。そんな自分に正直でいたい」

83年3月のモンテカルロの対戦相手は19歳のサーブ&ボレーヤー、アンリ・ルコント(フランス)だった。6-4、5-7、6-7の敗戦後にこう話している。

「やれることはすべてやった。悔いは何もない。もう、朝早く起きて4、5時間の練習をする必要もない」

1983年3月のモンテカルロ大会準々決勝の試合前、フォトセッションに応じるボルグとルコント(左) T.Nakajima/Mannys Photography

世界中から引っ張りだこの過密スケジュールに追われ、ATP(男子プロテニス協会)との間で出場試合数をめぐって揉めていた。その年も、タイでのエキシビションを終えると、ネパールでの束の間の休暇を挟み、祖国のスウェーデンに招かれ、カナダのトロントに飛んで、居住先のモンテカルロでのツアーの後に韓国のソウル、そして東京へ……。休む間もない非人間的な労働条件に縛られて、こんなことを吐露したことがある。

「真夜中にラケットのガットが切れる音で目が覚め、眠れなくなる」

旅先の闇に目をこらす孤独なヒーロー……。手練れのスポーツライターの脚色だったかもしれないが、この若者の孤軍奮闘を物語る的確なエピソードに違いなかった。誰よりも強く張られた80ポンドのガットテンション。板のように硬いガットの悲鳴が、“氷の男”と呼ばれたビヨン・ボルグの闘志を蝕(むしば)んでいた。

1983年モンテカルロ大会でのボルグ。芝コートとともに赤土も得意にしていた T.Nakajima/Mannys Photography

18歳、史上最年少で全仏優勝

1956年6月6日、スウェーデンの首都ストックホルムで生まれ、近郊の工業地帯セーデルテリエで育った。電気技師の父は卓球選手として活躍し、一人っ子のボルグは幼い頃から地元で人気のアイスホッケーと卓球に夢中になった。テニスにのめり込む発端は、父が卓球大会の賞品で持ち帰った金色のラケット。独特のウエスタングリップは卓球と同じシェークハンドグリップで、自宅の庭で何時間も続いた自己流の壁打ちが、テニスの歴史を変えることになる。

硬く張ったガットで下からこすり上げる強く、深く、跳ね上がる球威は、アイスホッケーで叩きつけるスラップショットであり、15.25㎝のネットすれすれに飛び交うセルロイド球の弾道のアイディアだ。4歳上のコナーズを真似た、当時は珍しかった両手打ちバックハンドが攻撃的な少年ボルグに合致した。

13歳でスウェーデンのトップジュニアに。1972年には15歳での国別対抗戦デビスカップ・デビューを勝利で飾り、ウィンブルドンジュニアに優勝、ジュニアの登竜門と言われたオレンジボウルの18歳以下の部で後のライバル、ビタス・ゲルライテス(米国)を倒して優勝した。

15歳でプロ大会に出場し、地元のクレー大会では全日本選手権3連覇中の神和住純を破っている。73年から本格的にツアー参戦。18歳になる翌年には、オークランドでの優勝を皮切りに、ロンドンではアッシュ、ロスコ・タナーを倒しツアー8勝。特に5番目のメジャーと言われたローマでマヌエル・オランテス、ギレルモ・ビラス、イリー・ナスターゼといった錚々(そうそう)たるトップシードを破った勢いのまま、全仏オープンではフルセット3試合を乗り切って大会史上最年少(当時)で初のメジャータイトルを刻んだ。

その74年のローランギャロスにはそれまでと違う風が吹いていた。全豪オープンを制したコナーズとイボンヌ・グーラゴングの男女のチャンピオンが出場を認められなかった。米国で旗揚げされた「ワールド・チーム・テニス」との契約で4大大会への出場禁止の処分が出た。欧州の大会日程と重なっていたためだ。

「時の主役」不在の異常事態の中で、18歳のボルグと19歳のクリス・エバートという、やがてテニス界を牽引するヒーローとヒロインが初のメジャートロフィーを掲げた。この新たな息吹の影響だろう。法廷闘争に発展していた処分は解かれ、コナーズは続くウィンブルドンでエバートとともに優勝している。前の年には、デ杯の出場義務をめぐりATPがウィンブルドンをボイコットしていた。テニス界は68年のオープン化から世界ツアーとしての在り方を模索していた。ボルグの登場は新たなテニスの方向性を示唆していた。

テニスのイメージを劇的に変えた革命児

そこからは飛ぶ鳥を落とす勢いだ。75年に全仏連覇、76年にコナーズに次ぐ世界ランク2位に駆け上がってウィンブルドンV5が始まる。77年には世界ランクの頂点に立ち、78年から3年連続で全仏―ウィンブルドンと海峡を跨ぐ“チャンネル・ダブル”を達成し、79年はツアー最高の13勝。パリで勝ち、ウィンブルドンで勝ち、デ杯に勝ち、祖国で勝ち、カナダで勝ち、アジアで勝ち……21歳の若いチャンピオンは世界中の若者を引き付け、テニスのイメージはガラリと変わった。風景が変わった。

オープン化直後のツアーは、ロッド・レーバーを筆頭とした老練な豪州勢から、腹が突き出て野卑な雰囲気のイリー・ナスターゼやボビー・リッグスといった“職業プロ”、さらにはアッシュ、スタン・スミス、コナーズら華美なヤンキーの流れで盛り上がっていた。賭けとシガー(葉巻)の匂いが漂い、中年男性の野太いヤジの飛び交うコートに、長髪をバンダナで抑えたスタイリッシュな若者が出現したのだ。赤と青のパッチもお洒落なフィラのシャツ、ゴールドのロゴが入ったディアドラのスニーカー、小脇に小ぶりなドネーのラケット、何もかもファッショナブルで、女性ファンは急増した。彫りの深い顔に感情を隠し、激しいラリーから一転して沈思黙考に入る神秘的な表情……人々は“アイスマン(氷の男)”と呟いた。

強靭な下半身と氷を滑るようなフットワークから削り出されるスピンが唸りを上げ、相手をベースライン深くへ押し続ける、粘り、持続する集中力は、観る側の感情を内へ内へ吸い込んでいった。14歳のある日、ライン・コールに腹を立ててラケットを放り投げたことがあったという。3カ月の出場停止処分になり、母親にラケットを取り上げられた。厳しい躾(しつけ)が骨身にしみ、喜怒哀楽を抑えるようになった、とか。激しさと静けさ、テニスの新たなドラマ形式が生まれた。舌を巻くプロの技は既に存在していた。ボルグはネットを挟んだ単純な反復行為に潜む、このスポーツならではの精神戦の奥行きを表現した。テニスには必ず相手がいる。別な角度から新しいテニスを築いていたのが、3歳下のジョン・マッケンローだ。

ボルグにはラファエル・ナダルが登場するまで命脈を保った78年からの全仏4連覇の記録があり、ロジャー・フェデラーが切り崩した76年からのウィンブルドン5連覇がある。クレーからローン(芝)へ、わずか2週間(当時)の間隔で開催される海峡をまたぐ異種サーフェスを連続で3度も制した例は他にないが、ベースラインからのストローク戦が武器のボルグは、ウィンブルドンでは73年からベスト8止まりだった。76年に心機一転、ナスターゼを相手にサーブの特訓を積み、決勝でそのナスターゼを倒した。失セット0。しかも全仏からの腹筋痛を薬で抑えながらの凄まじい集中力は、20歳の夏、若さによるものだろう。そして5連覇を賭けた80年のマッケンローとの決勝は、ウィンブルドン史上最高の試合と語り継がれ、2017年に映画にもなっている(「ボルグ/マッケンロー 炎の男と氷の男」)。

ボルグは24歳になったばかり、マックは21歳。ボルグの1-6、7-5、6-3のリードで迎えた第4セット、前年に採用されたタイブレークは20分に及び、マッケンローが18-16でセットオールに持ち込んだのだが、タイブレークのないファイナルセットをボルグが8-6で奪い返した。オープン化以降では初の聖地5連覇。3時間53分の激闘の末、跪(ひざまず)いて天に吠えるボルグの姿は、まるで神話の挿絵のように世界中に流れた。

1980年のウィンブルドン決勝、マッケンローとの激戦を制し優勝が決まった瞬間、跪いて咆哮するボルグ Wimbledon, London on 5th July 1980 Photo by Leo Mason/Popperfoto via Getty Images

2人のライバル関係は、マックがまだスタンフォード大学に在籍していた78年に始まっていた。79年にはボルグが4勝2敗。当時の世界サーキットを展開していたWCT(World Championship Tennis)での対戦で、初のメジャー対決が80年のウィンブルドンだが、ここからのテニス界の話題は2人の独壇場だった。80年の全米、81年のウィンブルドン、全米の決勝が同じ顔触れとなり、3試合のすべてをマッケンローが奪っている。俊敏なレフティーのサーブ&ボレーを、ボルグは必死に押し込もうとしたが、スピードとパワーを求める新しい時代の波は圧倒的だった。

81年の全米がボルグの最後のメジャー大会になった。全米には10度挑戦して準優勝が4度、決勝でコナーズとマッケンローに2度ずつ敗れている。ついに1度もタイトルを手にできなかったが、それほどこだわりがあったわけではないだろう。全豪には1度しか出ていない。グランドスラム、4大大会という発想は近年の航空事情の産物であり、80年代まではウィンブルドンこそがアイスマンの目標だったのだ。

12年の現役生活に凝縮された情熱は、若さの無限の可能性を証明し、世界中に喜びと感動の輪を広げた。記録がいかに塗り替えられようとも、ビヨン・ボルグの輝きは少しも減じない。離婚、破産、その後のボルグをめぐる数々のゴシップに世界中のテニスファンはため息を漏らしたが、彼を悪く言う人はいない。

ボルグ引退の報に接したマッケンローはすぐに電話したという。やめないでくれ――物事にはこの人だからできた道があるようだ。

バナー写真/1981 Wimbledon  Photo by Walter Iooss Jr. /Sports Illustrated via Getty Images

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