ドキュメンタリー「フォルツァ!シナー」
異色のイタリアンを世界の頂点に押し上げたバックグラウンドに迫る
2024年6月、テニス界の王者が初めてイタリアから誕生した。人口わずか1900人ほどの村で育ったやせっぽちの少年が、イタリア人初のグランドスラム・チャンピオン、そして第29代のATPランキング1位へと上りつめたのだ。
オーストラリア発のドキュメンタリー「FORZA JANNIK」は、近年高まっていたイタリアのテニス熱を一気に沸点まで押し上げたヤニック・シナーの成長と成功の物語。グランドスラム初制覇の舞台となった全豪オープンの公式チャンネルが24年に制作し、英語のオリジナル版は24年末以降、世界の主要な動画配信サービスで視聴することができる(25年1月6日からはユーチューブでも公開)。そしてお待ちかねの日本語字幕版が、WOWOWで25年2月に放映され、その後もオンデマンドで配信されている「フォルツァ!シナー」だ。
50分あまりのこの作品は、主に24年全豪の戦いの軌跡と少年時代からの生い立ちをリンクさせるように編集されているが、全体の4割にも及ぶ故郷での取材パートが特に興味深い。雄大な山々に抱かれた、南チロル地方のセストという村がシナーの故郷だ。イタリアには日本の市町村のような区別はなく、都市でも村でも自治体の最小単位を「コムーネ」と呼ぶそうだが、日本語で表すならやはり「村」がふさわしい。その牧歌的な風景の中で、未来のテニス王者が育まれたという事実にいきなり惹き込まれる。
大人を失意に追いやった天才スキー少年の決断
オーストリアとの国境に位置するその風土、歴史、文化を知れば、我々が抱くステレオタイプなイタリア人とは容貌も言動もどこか違うシナーの謎が解けていくような気がする。また、細身の体格とは不釣り合いなほどの強靭(きょうじん)な足腰が、どのように培(つちか)われたのかということも……。夏が短いその土地にはスキー場があり、シナーも5歳からスキーを習い、数々の大会で優勝する有望な少年だった。
しかし、同時に4歳からテニスも習い、12歳になるとスキーをやめてテニスを選んだ。その理由をこう語っている。
「スキーで勝つためにはミスが許されない。でも負けるのは嫌だ。テニスはミスをすればポイントを失うけど、試合に勝つことはできる」
レースよりも、ゲームが性に合ったのだ。
作中には、シナーにスキーを教えたコーチも、「ヤニックに初めてラケットを握らせたのはこの僕」と誇らしげな最初のテニスコーチも、その次のコーチも登場する。シナーの運動センスは田舎に暮らす指導者たちをワクワクさせ、喜びを与えたが、いずれ失望も味わわせることになった。シナーがスキーをやめてテニス選手を目指すという話を聞いたスキーコーチは残念がり、「正しい選択なのか」と案じた。2番目のテニスコーチは、13歳のときにセストを離れてボルディゲーラのアカデミーに行ってしまうシナーのことを「素直に喜べなかった」と振り返る。手放したくなかったのだ。
しかし、時が経ち、彼らはこう口を揃える。
「今となっては正しい選択だった」
彼らの微(かす)かな悲哀と、大人になったシナーが語る人生観が重なる。
「人生は選択の連続だ。みんなを幸せにすることはできないよ」
人は皆多かれ少なかれそうやって生きているが、神童の選択は多くの大人たちを巻き込む。小さな村の濃い人間関係の中で育った彼には、自分の選択に対する責任が早くから芽生えたのではないだろうか。
13歳から拠点にしたボルディゲーラはフランスとの国境近くにあり、セストからは車で8時間かかる。そこに、かつてフロリダのIMGアカデミーでコーチングを学び、数々のトッププレーヤーを教えたリカルド・ピアッティのアカデミーがあった。シナーがネクストジェン・ファイナルズのチャンピオンになるのは18歳のときだが、それよりも前からピアッティは「これまで自分が教えた誰よりもいい選手になると思う」と評価していたという。彼が教えた選手の中には、ノバク・ジョコビッチもいた。
ピアッティとの関係は20歳まで続いたが、そのピアッティと別れた後、2022年2月に現在のコーチでもあるシモーネ・バニョッツィを招いた。ベスト8に終わった全豪直後のことだが、当時63歳のベテランコーチから38歳の若手コーチに替えた理由について、作中でも詳しく描かれてはいない。しかし、初のトップ10入りからわずか3カ月後の決断が周囲を驚かせたことは確かだった。半年後には、かつてアンドレ・アガシやシモナ・ハレプのコーチだったダレン・ケーヒルが陣営に加わった。この二人コーチ体制はすぐに機能したわけではなかったが、翌23年のウィンブルドンでベスト4、8月にトロントで初のマスターズ1000のタイトルを獲得し、ツアーファイナルズで初の決勝進出。24年初めの全豪優勝につなげた。
こうして、かつてのジョコビッチをも上回るほど期待していた選手を手放すことになったピアッティも、今となっては穏やかな面差しでこう回顧するのだ。
「私にとってはつらい別れだったが、ヤニックにとっては正しい選択だった」
テニス界にイタリア帝国を築いた剛腕の立役者
なお、原題には「シナーとイタリアテニスの隆盛」という副題がつく。つまりもう一つの重要なテーマが、イタリアテニス全体の盛り上がりの背景だ。
2025年3月3日付のATPランキングのトップ100に、イタリアは国別最多の11人(2位はアメリカの10人)が名を列ねる。内10人が20代で、8人は24歳以下である。イタリア国内で今やテニスはサッカーに次ぐ人気スポーツ。24年はデビスカップ2連覇のみならず、女子国別対抗戦ビリージーンキング・カップとの“アベック優勝”も果たした。
21年からトリノで開催されているATPファイナルズは、25年までの契約が5年延長され、30年まで同地で開催されることが決まっている。ネクストジェン・ファイナルズも初開催の17年から22年まで(※20年はコロナ禍で中止)ミラノが舞台だった。ローマで開催される男女共催のイタリア国際は80回超(1930年に第1回大会開催、1936年~49年は中断、86年は女子の部門は実施されなかった)の歴史を今に受け継いでおり、男女ともツアー最高格の「1000」のカテゴリーに属する。ツアーのトップクラスの大会ばかりではない。特筆すべきは、国内で年間に約20大会ものチャレンジャー大会が開催されていることだ。
また、ATPの最高責任者は20年よりイタリアのアンドレア・ガウデンツィが務める。彼は「シナーのような王者を生み出すレシピは存在しないが、トップ100の選手を増やす方法ならある」と胸を張り、「トップ100の選手の数には、その国の連盟の仕事ぶりが表れる」と断言する。イタリアのテニス連盟は、イタリア国際での収益を使い、チャレンジャー大会の増設と2つのファイナルズの誘致を実現させた。さらには世界中のテニスを24時間放送するテニス専用チャンネル「Super Tennis」を08年に開設し、その運営を連盟自らの手で行っている。こうした投資が実を結んだ背景は、番組の中でインタビューに答えている選手たちの言葉に委(ゆだ)ねよう。
多彩なキャラクターで賑わうイタリアテニス、その先頭を走る若き王者……彼らが挑む壮大な「ゲーム」は、不思議とファッションやアートの香りまで楽しむことができる。
Forza Jannik : Sinner and the Rise of Italian Tennis by Australian Open TVバナー画像:WOWOWオンデマンドより