編集者コラム「晴庭雨読亭日乗」2 アルカラスがやって来た
木下グループ・ジャパンオープン(以下、ジャパンオープン)に世界王者がやって来た。全米オープンを制し、2023年9月以来、約2年ぶりに世界ランク1位に返り咲いたカルロス・アルカラスの待望の初来日。若き世界ナンバーワンは何を東京に残していったのか。
ATP(男子プロテニス協会)世界ランク1位選手の同大会出場は、19年のノバク・ジョコビッチ以来のこと。ジョコビッチの参戦は、翌年に行われる予定になっていた東京五輪(新型コロナ禍の影響で21年に延期)の会場の下見を兼ねたもの。五輪の金メダル獲得が悲願だったジョコビッチ(24年パリ五輪で達成)の並々ならぬ意欲が注目を集めたが、アルカラスの来日は当時とは比較にならないほどの盛り上がりを見せた。
とはいえ、若き日のステファン・エドバーグやリサ・ボンダーの来日時のフィーバーぶりを知るオールドファンにとっては、それは驚くほどのレベルではなかったが、観客動員に関しては過去最高を記録。チケットの売れ行きは完売続出で主催者発表12万1045人、錦織圭が優勝した14年の約2倍の動員となった。これはデイマッチとナイトマッチの2セッション制(2部制)を導入した(準決勝、決勝を除く)施策の影響もあるが、やはりファンの期待に違わず決勝に進出、そして優勝した世界ナンバー1の活躍が最大の要因であろう。
銀髪で様変わりした風貌
アルカラスが東京・有明に姿を現したのは、9月25日(水)のこと。前年からレーバーカップ(欧州選抜対世界選抜=以下、レーバー杯)の翌週開催になったこともあり、水曜~翌週火曜開催となったジャパンオープンに出場するためだ。新王者はレーバー杯で激闘を繰り広げたサンフランシスコ(米国)から直行、10月近くになっても夏日が続く東京をさらに熱くさせた。
当日、出場試合はなかったものの、各種のインタビューに応じたアルカラス。公式会見はインタビュールームで行われたが、個別のメディア対応は有明コロシアムの正面入り口裏側のオープンスペースで行われた。この様子は2階の回廊から遠巻きに眺めることができ、多くのファンが鈴なりになっていた。日本人は「初物好き」ということもあるが、他の選手にはこれほどの人が群がっていなかっただけに、注目度の高さは別格。期待度の高さが窺えた。
印象的だったのは髪型だ。全米オープンの直前に実兄が行ったバリカン刈りの失敗により坊主頭となったアルカラス。大会終了直後から銀髪となったが、直で見るとイメージがガラッと変わっていた。坊主頭になった時は「素朴で飾らない若者」というイメージがさらに補強された感があったが、銀髪にした途端、良い意味でワイルドでクールな若者に変貌していた。ヘアスタイリストのヴィクター・バーバー氏による銀髪へのイメチェンによりオーラをまとい、風格さえ漂わせていたのには驚かされた。

負傷と背中合わせの過酷なスケジュール
世界ナンバーワンが決勝まで勝ち上がってくれることを期待していた多くのテニスファンと主催者(?)は1回戦でいきなり肝を冷やした。セバスチャン・バエス戦の第1セット第5ゲームでアルカラスは左足首をひねってコート上に倒れこみ苦悶の表情を浮かべた。騒然とするセンターコート。メディカル・トレーナーの初動の処置がベンチではなく、コート上で行われたのも異例のこと。「1回戦でいきなり棄権?」と多くの人々が想像しただろうが、トレーナーの処置が功を奏したか、プレーに復帰。結局、ケガを押してプレーを続け、6-4、6-2でバエスを退けた。
この負傷には、トップ選手のツアースケジュールの過酷さに思いを致さずにいられなかった。全米で優勝した翌々週に行われたレーバー杯の3日間でアルカラスはシングルス2試合、ダブルス2試合に出場、激闘を繰り広げた。団体戦はある意味、個人戦よりも勝利へのプレッシャーがキツイ。自分の勝敗がチームの戦績にも直結するからで、その分、心身共に疲労度は増す。自分が試合に出ていない時でもコートサイドでチームの応援に注力する必要があり、長時間気が抜けないのも疲労が溜まる要因になる。
ジャパンオープンの1回戦はレーバー杯の4日後に行われたが、高強度のゲームを4試合こなした後、サンフランシスコから10時間超のフライトを経て東京に移動、時差ボケも解消しない内にすぐに試合。これは同じくレーバー杯出場者のテイラー・フリッツ、キャスパー・ルード、ホルガー・ルーネ、アレックス・ミケルセンにも言えることだが、このような過酷なスケジュールを消化し来日した選手達のタフネスさには敬服するしかない。その上、第1シードを守って優勝したアルカラスはもちろん、準優勝のフリッツ、準決勝まで勝ち進んだルードの奮闘は特筆すべきものだ。
アルカラスの負傷はこの過酷な日程と決して無縁ではない。バエス戦の序盤はストロークのスピードを抑え、動きもやや緩慢な「ならし運転」。自分のコンディションとサーフェスの感触を確かめながら低速ギアでプレーしている感じだった。そんな中、激しいラリーが続き、バエスは左右に激しい揺さぶりをかけてきた。アルカラスは懸命に対抗したが、疲労の蓄積もあってか、フットワークが滑らかさを欠く中、左足首を痛めてしまった。本来、初戦の序盤は抑えたペースで試合を進めたかったところ、ラリーを続けている内に覚醒した闘争本能が負傷を誘発してしまったのだろう。
1回戦は何とか勝利したアルカラス。2回戦以降の戦いは棄権、もしくはケガの影響による敗退が懸念されたが、ケガの影響を感じさせることなく、スーパーショットや鋭いカウンターを随所に繰り出し、決勝まで勝ち進んだ。
レーバー杯のリベンジマッチ
今大会でアルカラスが格別の注目を集めているのは、練習スケジュールでも窺えた。ほとんどの選手は練習スケジュールが大会の公式サイトで公開されているのだが、アルカラスについては警備上の配慮か、基本的に非公開。決勝の日もやはり非公開。練習はショーコートで行われ、観客は完全にシャットアウト。練習風景は一切見られないにもかかわらず、姿を一目だけでも見ようとコートの出入り口に百人近くが列をなした。アルカラスの移動にはカートが用意され、動線には規制のロープが張られ、セキュリティスタッフが配置された。それでもアルカラスはファンの傍に寄ってきて撮影に応じるなど、制限がかかる中でもファンサービスに努めていた。
決勝の相手はレーバー杯で3-6、2-6のストレートで敗れたばかりのフリッツ。これまでの対戦成績はアルカラスの3勝1敗。サンフランシスコは屋内のハードコートだったが、有明は屋外のハードコート。しかしながら当日、雨雲が近づいてきたため、試合開始直前、開閉式の屋根が閉じられ、インドア状態になった。何やらレーバー杯を思い起こさせるような成り行きになった。
サーフェスは有明の方が速いと言われるが、フリッツは過去ジャパンオープンに8回出場、22年には優勝するなど、有明のコートを知り尽くしている。一方のアルカラスは決勝までに4試合を戦ってコートの特性は完全に把握しただろうが、左足首の状態が万全でないことを考えると、拮抗した戦いになるのではと思われた。
ところが、蓋を開けてみれば6-4、6-4でアルカラスのストレート勝ち。試合は初っ端からお互いにエンジン全開でフルショットの応酬。前日会見で「カルロスとの戦いはアグレッシブにいかないと」と意気込んでいたフリッツと、「先週と同じ間違いはしないよ」とリベンジを誓っていたアルカラスの意地と意地がぶつかり合う戦いだった。フリッツが第1セットで左太ももを負傷してからやや精彩を欠いた感があったが、アルカラスも足首に負傷を抱えながらのプレー。お互いケガをこらえて果敢に戦ったが、新王者の方が終始試合の主導権を握り、超攻撃的なショットの数でも相手を上回った。
大会14年ぶりとなる第1シード(アルカラス)と第2シード(フリッツ)の決勝は2025年ウィンブルドン準決勝と同一カードでもあった。トップの2選手がグランドスラムと変わらぬ熱量で戦い、世界最高峰のテニスを見せてくれた。優勝に絡むような日本人選手の活躍がなくとも日本のテニスファンはテニスの醍醐味を大いに堪能できたのではないか。アルカラスはもちろんだが、彼のスーパープレーを引き出したフリッツの気迫のこもった超攻撃的テニスも見応え十分だった。

垣間見えた世界ナンバーワンの責任感
それにしても生で見るアルカラスのショットは素晴らしかった。超高速の低弾道ストロークはもちろん、普通の選手ならば追いつくのがやっとのボールをカウンターでエースを決めるスーパー・ランニングショット、上から叩きつける強烈なフォアのアングルショット、センターラインの角を射抜く強烈なサーブ、そして要所で決める絶妙なドロップショット。ネットプレーも絡めたオールラウンドな攻めを展開するプレーはやはり超一流だった。
優勝を決めた直後のオンコートインタビューでアルカラスはこう語った。
「この1週間、できる限りの足首のケアをし、できるだけ良いレベルで試合ができるようにした。そして精神的に強くあろうと努力した」
「辛い時や苦しい時、うまくいかない時に勝ち切るのがトップだ」
男子テニス界の頂点に立つ選手としての責務と矜持を感じさせる発言だった。おそらく有明のセンターコートで観戦したファンもテレビ観戦したファンも、この発言を聞かずとも、足首の痛みに耐えながらスライディングも辞さずコートを全力で駆け回った若き王者のひたむきなプレーには心を打たれたに違いない。
ジャパンオープン終了後、療養に専念するため次戦の上海オープンを欠場するなど、ケガの状態はやはり深刻だった。にもかかわらず全力でプレーし、会場を盛り上げたアルカラス。優勝スピーチでは「また近い内にこの大会に出場したい。早ければ来年にでも」とリップサービスを行い、フォトセッションでは、ボールパーソンを全員集めて記念撮影にも応じた。自分の傍に来るようカルロスに促された少女の困惑と感激が入り混じった表情が印象的だった。
男子テニス界の新盟主はプレーはもちろん、マナーもファンサービスも超一流だった。興行的にも大成功となり、また観衆と視聴者にも大いなる満足感を与えた。テニスファンも大会主催者の誰もが彼の再来日を熱望していることだろう。今大会期間中は負傷のこともあって、渋谷のスクランブル交差点観光や武者装束体験ぐらいしかできなかったようだが、今度は日本の風物も楽しみながら大会で活躍する日が来ることを願わずにはいられない。

バナー写真:会心のショットを決め、ガッツポーズをするアルカラス 撮影:真野博正

