テニス名プレイヤー列伝 第12回 アンドレ・アガシ

サーブ&ボレーからリターンゲームの時代へ転換 記録にも記憶にも残る時代の寵児
ジョン・マッケンローが女優テータム・オニールと結婚したのは1986年4月、“悪童” が“鉄人”ボルグとのウィンブルドン伝説を制し、イワン・レンドルとの2強時代を築いた最中のことだ。前年夏のウィンブルドンでボリス・ベッカー、秋の全豪ではステファン・エドバーグが若い狼煙(のろし)をあげていた。戦線離脱に「復帰は至難の技」という観測が流れる中、85年度最終戦のマスターズ(86年1月開催。当時は翌年1月に行われた)後、しばし、ラケットを置いた。
「そろそろテニスが恋しくなった」と軽口を叩いてコートに戻ったのが86年8月のストラットン・マウンテン。センセーションを巻き起こしたのは、獅子のたて髪のような長髪をバンダナで抑え、デニムの短パン姿の16歳だった。ツアー3戦目のアンドレ・アガシは、2回戦でティム・メイヨット、3回戦でスコット・デイビスと米国のデビスカップ代表をなぎ倒した。マックは準々決勝で6-3、6―3で退けたが、「あのリターンはレンドル、ベッカーよりすごい。ボールが見えなかった」と唸った。サーブ&ボレーからリターンゲームへ、新時代の幕開けだ。
ジミー・コナーズやボルグはその少年に見覚えがあっただろう。そこにアガシ一家の複雑なファミリー・ヒストリーが横たわる。70年4月29日、ラスベガス生まれ、2人の姉と兄の4人兄弟の末っ子。イランからの移民である父マイクの強烈な個性がエキセントリックな物語の序章となる。マイクは30年、イラン北部のサルマス生まれ。41年にイギリスやソ連の連合国軍が石油権益を巡り侵攻した。進駐軍兵士が興じるテニスでスポーツの醍醐味を知ったが、イスラム圏はテニスとは無縁だった。マイクはストリートファイトから転じたボクシングで、オリンピックのロンドン、ヘルシンキ大会の代表になる。アガシは自伝『OPEN』で父親の言葉を思い出している。
「相手の最高のパンチを浴びてやるんだ。得意の一発で倒れなければ、敵はひるむ。テニスも同じだ。ビッグサーバーのサーブを攻めるんだ」

トラウマとなった猛父のスパルタ訓練
兄を頼って米国に渡ったマイクは、家庭を持つとカジノで急成長するラスベガスに新天地を求めた。カジノホテルに勤め、長女のリタと次女のタミ、長男のフィリップをテニスプロにすべく、裏庭に魔改造した球出しマシンを設置した。“ドラゴン”と名付け、1日2500球、時速110マイル(約177km)の剛速球が子供たちに容赦なく襲い掛かった。ホテルがエキシビジョンマッチに招いたコナーズやボルグとの記念写真が残っている。その笑顔とは裏腹に、子供たちは反発し、リタは父親より13歳年上のパンチョ・ゴンザレスの妻になる。残された希望の星がアンドレだった。
力には力、歯には歯をの血脈は息子に流れていたが、アガシは父親の完璧主義も闘争心も嫌悪した。ラケットを放り投げ、英国系白人で働き者の母親エリザベスの胸に顔をうずめて泣いた。しかし、父親はアガシが最悪の出来事と振り返る決断をする。母や兄姉と切り離し、遠いフロリダのニック・ボロテリーのテニス・アカデミーに送り込んだのは83年、13歳の時だ。経済的理由から3カ月の予定が、ニックは30分でその素質を見抜き「金は要らない」と長逗留(ながとうりゅう)になった。
ジム・クーリエとは同時期にアカデミーに同宿。西海岸には1歳下のピート・サンプラス、2歳下のマイケル・チャン……やがてメジャーを制する“アメリカ四銃士”の下積み時代、アガシは頭一つ抜け出した。自宅庭でのドラゴン相手の特訓だけでなく、付属スクールとの往復だけの牢獄のようなアカデミーの生活から逃げ出したい心底からの叫びが原動力だ。15歳の冬、アガシはニックにこう申し出る。
「勉強は通信教育にしてプロを目指したい」
兄フィリップとオンボロ車の文無し旅行を始めた。予選を勝ち上がり1回戦を突破し、身分はアマチュアだったから経費をでっち上げ、せしめた2000ドルで兄とファミレスのエビ食べ放題で祝った。2戦目のチャレンジャーは準優勝、ストラットン・マウンテンでの華やかなデビューまで半年足らずのことだ。
2年目には初タイトル、翌88年に6勝して年度末ランキングはたちまち3位、獲得賞金55万9千ドルで賞金ランキング5位。それでも、世界の頂点にたどり着くのは95年だ。伝統の大舞台での活躍が遅れた。
アメリカ四銃士の中で、最初にメジャーのトロフィーを掲げたのはチャン(1989年全仏)で、サンプラスは90年の全米、クーリエは91年の全仏で、共に決勝でアガシを倒して優勝している。アガシに彼らに先んじるチャンスはあったのだ。90年の全仏でクーリエ、チャンを退け、決勝でアンドレス・ゴメスと対戦した。30歳3カ月の史上最年長(当時)優勝を譲った舞台裏に、ちょっとしたアクシデントがあった。トレードマークの獅子のたて髪は、その頃、ヘアピース、すなわちカツラだった。遺伝なのだろう、19歳になると髪がドサッと抜け始め、決勝前夜に愛用のカツラがバラバラになった。満場のセンターコートでそれがいつ脱落するか……集中力が欠けていた。

華やかな女性遍歴と二人の相棒
二人の相棒が華麗なるサクセス・ストーリーの名脇役だ。
89年の全米でレンドルに敗れたアガシは、地元ネバダ大学ラスベガス校(UNLV)のバスケットボールのフィジカルトレーナーだったギル・レイエスを訪ね、2006年の引退までの固いタッグが始まる。
「テニスは走力ではない。発進と停止の目的にかなう筋肉を作る」
320mの登坂練習、ウェイトトレーニングを強制し、19歳で158ポンド(72㎏)だったベンチプレスを、33歳で350ポンド(159㎏)挙げるまでに。アガシの最大の特徴は晩年の活躍にある。チャンの引退は31歳、クーリエは29歳、サンプラスも31歳でコートを離れたが、アガシは36歳までプレーし、メジャー優勝8回の内の5回は29歳以降のものだ。

念願のメジャー初優勝は92年。格式ばったルールと芝を嫌い、それまで4回も大会参加をパス、出場した2回は1回戦負けにベスト8と決して相性が良くないと思われていたウィンブルドンだった。年末には米国のデ杯優勝に貢献するなどドラマチックなシーズンとなったが、すぐに危機と転機が訪れる。翌93年に右手首を痛め、全米は初戦敗退。オフに決断した手術後、ニックから契約解除の通知が届いた。幼馴染の恋人とも別れた失意と折り重なるように、新たな世界が広がる。
28歳年上のバーブラ・ストライサンドとの交際と入れ替わるような女優ブルック・シールズとの出会い、ブラッド・ギルバートのコーチ就任が94年春。いかにして格上に勝つかを解き明かしたベストセラー『Winning Ugly』で話題になった直後である。ギルバートはこう話した。
「なぜ勝てないか不思議だよ。テニスに完璧を求めていないか? テニスはミスしてもいい、グランドスラムは21セット取ればいいんだよ」
父親に完璧を求められて育ち、ウィンブルドンを含め優勝19回のプレースタイルを変えるのは不可能に近い。ギルバートはいくら負けても「それでいい」を繰り返した。負けることが、むしろ新たな道への入り口と見たのだろう。ランキングは20位に下降したが、カナダ・オープンの優勝をバネに念願の全米タイトルをつかむ。ノーシード(当時)の優勝はオープン化以降初と騒がれたが、ランキングはあくまで過程の数値だった。年末ランキング2位、そこから全豪オープンに初出場・初優勝。サンノゼ、マイアミと勝ち、ついに頂上に到達する。
変わったのはプレーだけではない。ブルックと付き合い始めた頃に「実は、この髪」と打ち明けた。シールズはあっけらかんと言った。
「剃ればいいじゃない。私、別に髪に恋したわけじゃないわ」
ついには友人たちを招き断髪式を敢行、坊主頭となった。
アップダウンを重ねながら、アガシは父親の圧力から逃れるために身に着けた殻を一枚、一枚、剝がしていった。94年全米優勝、95年全豪優勝、96年アトランタ五輪金メダル、ブルックとは97年4月に結婚したが、銀幕の花とツアーのスーパースターの生活は違い過ぎた。手首の故障の再発、違法薬物メタンフェタミン(興奮剤)摂取による体調不良でその年にはランキング141位まで急降下。そうかと思えば、98年にはキャリア最高の68勝(18敗)、優勝5回で世界4位に急上昇。もがき苦しみ、物語は99年にクライマックスを迎える。

崖っ淵からゴールデンスラムへ
年明けにブルックとの蜜月は幕を閉じ(4月に離婚)、99年は苦しいスタートになった。4回戦敗退の全豪の後、サンノゼ、スコッツデールは連続で途中棄権、3月のインディアンウェルズを欠場。直後のマイアミで、ギルバートがシュテフィ・グラフのコーチに練習を申し込んだ。2人の仲を取り持ったというより、女王のストイックな競技姿勢に触れさせたかったのだろう。
心身の疲労が蓄積し、クレーコートシーズンは苦境に陥った。ローマは3回戦、デュッセルドルフは初戦敗退、全仏は無理だと弱気になるアガシに対し、ギルバートはゲキを飛ばした。
「あとはフレンチのタイトルだけなんだよ。ぶちかませ」
波乱万丈の前半生、テニスへの愛憎、強さと優しさの葛藤……ギルバートの叱咤(しった)は、アガシの才能への絶対的信頼だろう。かつてニック・ボロテリーも見抜いた「戦えば勝つ」強さへの確信だろう。クレー巧者のフランコ・スキラリ、地元のアルノー・クレマン、前年覇者のカルロス・モヤを逆転で乗り越え、決勝の相手は世界100位ながら、サンプラス、グスタボ・クエルテンを倒して勝ち上がった193㎝の長身、アンドレイ・メドべデフだった。ウクライナのキーウ出身。19歳で世界4位まで駆け上がり、神童と言われながら伸び悩んでいたが、6年前の対戦でアガシに勝った過去を思い出したかのように、第1セットは6-1、たった19分で先手をとった。
アガシにとって3度目になる全仏決勝は特別だった。ウィンブルドン(92年)、全米(94年)、全豪(95年)で優勝し、オープン化以降は誰も果たしていない男子の生涯グランドスラム、男子史上初の生涯ゴールデンスラム(+五輪金メダル、アガシは96年アトランタ五輪で金メダルを獲得している)達成にあと3セット。しかし、第2セットも2-6で落とし、第3セットも先にブレークしながらあっさりブレークバックされた。4-4のサービスゲームでは連続ダブルフォールトでブレークポイントを握られ、そのファーストサーブもフォールト。奈落へあと一歩の崖っ淵で、本能がよみがえった。セカンドサーブを、ダブルファーストの思い切りのよさでバックサイドに叩き込んでネットダッシュをかけ……そこから、焦げるような集中力で逆転していく。
第2セットの雨の中断中にギルバートはロッカールームで叫んだという。
「メドべデフにお前よりいいショットなんか一つもないよ。負けたっていいんだ。俺たちらしく負けよう。攻めて、攻めまくれ!」
崖っ淵からの渾身の一打は父親から受け継いだ不屈の闘志の表れではないか。泣きながらドラゴンに挑み、アカデミーを抜け出そうと知恵を絞り、手首の手術に怯え、結婚の破局に街を飛び出し……ギルとギルバートに引きずられて辿りついた舞台の土壇場で、魂がよみがえった。パリの大衆はそんなドラマに敏感だ。アレ、アレー、アガシ、興奮した観衆の連呼が赤土の宮殿に鳴り響いた。
1-6、2-6、6-4、6-3、6-4

泣きながら総立ちの大歓声にキスを投げ、四方に頭を下げる儀式はこの時から始まる。涙を拭うコーチスボックスの2人に「ぼくの友達」と声を掛けた。振り返れば、その前日にマルチナ・ヒンギスとの後味の悪い決戦を制したグラフとの交際は、あのパリから深まっていくのだ。
あのパリから、アガシは伸び伸びとプレーを始め、続くウィンブルドンで準優勝、全米、全豪を流れるように制覇し、2人は2001年秋に結婚する。男女各唯一のゴールデンスラマー同士が結ばれた、奇跡と呼ばずにはいられないテニス物語――25年全仏の最終日、プレゼンターとして現れたアガシを赤土のセンターコートは再び総立ちになって迎えた。

バナー写真:坊主頭に口ひげにピアス、アガシは現役時代の晩年まで独自のスタイルを貫いた 撮影:真野博正