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テニス名プレイヤー列伝

テニス名プレイヤー列伝 第11回 ラファエル・ナダル

2025.02.08 / 武田 薫(スポーツライター)

故郷を拠点にして不滅の記録を作ったクレーキング

ラファエル・ナダルが故郷マジョルカ島にテニスアカデミー(ラファ・ナダルアカデミー)を開設したのは2016年。秋に行われた開校式典に、ロジャー・フェデラーがスイスから飛んできた。14のメジャータイトルを手にし、30歳になっていたナダルだが、ロジャーの訪問を子供のように喜び、感動のあまりスピーチは震えた。

2人にとってその年は最悪のシーズンで、ナダルは手首を痛め、自身にとって最もプライオリティの高い大会である全仏オープンを3回戦で棄権。フェデラーは春先に膝の手術を受け、16年ぶりにツアータイトルなしでトップ10から陥落していた。ラファとロジャーは壇上で「来年、プレーできるだろうか」と話したという。その2人が翌17年の全豪オープン決勝で顔を合わせ、フェデラーが勝った。

フェデラーの出現でテニスは世界中に確固たる地位を得た。ナダルの出現でテニスはカラフルに分かりやすくなった。史上最高のライバルがテニスの黄金期を作り上げた。ナダルは「クレーキング」と言われた。クレーコートでの戦績は81連勝を含めて通算484勝51敗、勝率は90.5%。ビヨン・ボルグでさえ85.7%だ。その記録を深堀りすれば、決勝では63勝9敗、クレーコートの本山である全仏オープンでは優勝14回で算112勝4敗(勝率96.6%)。数ある記録の中で、永遠不滅の記録であることに疑いはない。

2017年全豪オープン決勝でフルセットの熱戦を繰り広げ、優勝したフェデラー(右)と準優勝のナダル(左)。中央はロッド・レーバー氏 撮影:真野博正

衝撃的な全仏デビュー

リシャール・ガスケとともにジュニア時代から名をはせたラファが、ローランギャロスの“城”に姿を現すのは遅れた。ウィンブルドン初出場が03年だったのに対し、全仏出場はプロ5年目で、19歳になる05年。そのデビューは衝撃的だった。初出場で初優勝を成し遂げたのはオープン化以降は82年のマッツ・ビランデルのみだったが、3回戦でガスケを倒し、準決勝でフェデラーを撃破、その勢いを駆って頂点に到達した。ロジャーとの対戦はそれが3度目のことで、前年の初対戦ではラファがストレート勝ち、その年のマイアミの決勝で5セットマッチのフルセット、3時間43分の末に敗れていた。全仏でのリベンジからは5連勝を飾る。通算対戦成績はナダルの24勝16敗だった。

大人の雰囲気をまとってネットプレーを駆使するフェデラーのスタイルと対照的に、タンクトップにパイレーツパンツを履き、バンダナをキリリと締めたラファはベースライン深くから強烈なショットを繰り出した。最大の武器である左利きフォアハンドからクロスに飛ばす打球は、焦げるような回転で硬いレッドクレーを蹴り、高く弾んだ。穴のないフェデラーのプレーに強いて弱点を探すなら、片手打ちのバックサイドに高く弾む打球なのだ。その戦術を編み出したのは、幼少期からのコーチ、叔父のトニー・ナダルだ。

ナダルはスペインの美しい島、マジョルカ島のマナコルという町で生まれた。父セバスティアンとその兄弟は保険会社、ガラス会社、レストランなどを経営するビジネス一家で、スポーツマンの家系でもあった。父の弟、ミゲル・アンヘルはサッカーの名門FCバルセロナに所属して3度のワールドカップに出場した自慢の叔父。兄のトニーは卓球選手として活躍した後、テニスに転じてツアープロを目指した時期もあった。セバスティアンと仕事をしながら地元クラブでコーチをし、ラファが叔父の下でテニスを始めたのは4歳の頃だ。フォア、バックとも両手打ちだったスタイルを9歳の頃に左の片手フォアハンドに変えた。本来は右利きなのだ。

一族はマナコルの大きなマンションで共同生活を送り、ナダルは妹やいとこを従えて育った。ツアープロになれば、旅から旅の地の利を考慮し、税金対策も兼ねてモナコあたりを拠点に据えるのが一般的だが、ナダルは故郷を離れなかった。いまでこそパリ-マジョルカ間は2時間ほど、それでも欧州大陸のはずれの避寒地だ。ジュニア時代にテニス協会からバルセロナに移る計画を打診され断っている。“地の利”以上の理由があった。後に、トニーの後任として同じマジョルカ出身のカルロス・モヤをツアーコーチに招いている。マネージメント契約を交わしたIMGでは一貫してバルセロナ出身で元プロテニス選手のカルロス・コスタが担当、後にラファとコスタは独立して共同でマネージメント会社を設立する。ナダルにとって故郷は、肥大化するツアーの渦に巻き込まれないための壁であり、ツアー戦略の重要拠点。共同体の力を借り、家族や仲間に守られながら強くなった。

初出場で初優勝というセンセーショナルなデビューとなった2005年全仏でのナダル。伝説はここから始まった 撮影:真野博正

叔父トニーの厳格な指導

トニー・ナダルの指導は厳しかった。幼い頃、ラファは何度も泣いて家に帰ったと述懐しているが、特にマナーにはうるさかった。フラストレーションが一杯のテニスで、いまや男女を問わずラケット・アビューズ(虐待)は日常茶飯事だ。ナダルは24年のプロキャリアの中で一度もラケットを叩きつけたり破壊したりしなかった。ベンチの下にきちんとボトルを並べる癖は提供スポンサーの銘柄がカメラに映るためで、記者会見場でもテーブル上のボトルを揃えてから始め、ラケットケースは必ずストラップの「バボラ」のロゴが見えるよう上向きに置いた。「自分だけでテニスができると思うな」。故郷の共同体で身に着けたプロのお手本的な所作は、周囲へのリスペクトだけではない。

2017年全仏で優勝、表彰式でスピーチをするラファ(右)と全仏10回目の優勝記念に表彰式に招かれたトニー(中央)。トニーは同年2月にラファのコーチを退任することを発表していた 撮影:真野博正

ジャパンオープンに2度来日し、ある時、日本のメディア関係者が和菓子を試食させる企画を思いついた。だが、いくら頼んでも苦笑いするだけで口に入れようとせず、「ボクはこれが好きなんだ」とマジョルカ製の乾パンの袋を見せた。ドーピングを恐れたのだ。それが、叔父たちとの生活を通して学んだプロの厳しさだ。

ファミリーに根差した戦略は、日程作りに反映されていた。グランドスラム通算優勝22回、史上最年少の24歳で生涯グランドスラムを達成し、ツアー通算92勝、北京五輪の金メダリスト(生涯ゴールデンスラム)、5度のデ杯優勝。しかし、年末のツアーファイナル・タイトルだけは一つもない。

全仏初制覇は19歳だった05年、ウィンブルドン初優勝は08年、全豪は09年、全米は10年。年間のピーキング(スポーツにおいて本番で最高のパフォーマンスを発揮できる状態に整えていくこと)の頂点を5月の全仏に置き、年齢に沿って徐々に9月の全米まで引き延ばしていった。全仏のデビューが怪我で大事をとって遅れたというのもファミリーだからこそできた決断だろう。通年で世界を転戦するテニスは、レベルが上がるほど日程管理は難しくなる。マーケットが拡大し、競争が激化し、低年齢化が進めば、マネージメントとコンピューターランキングに振り回され、選手は肉体的、精神的に潰れてしまう。精神的負荷を軽減させるためにも、故郷マジョルカという拠点はカギだった。

全身全霊で強烈なスピンをかけるフィジカルなプレースタイルで、選手生命は短いと考えられた。2016年に地元にアカデミーを開校、それは引退の道筋をつけたように見えたが、最終的にラケットを置いたのは38歳を過ぎた24年11月のデビスカップ準々決勝オランダ戦。その夏にはATP250ノルデア・オープン(スウェーデン、クレー)の決勝に進み、パリ五輪でジョコビッチとも対戦した。30歳を迎えた2016年から引退までの9年間の成績は313勝68敗、グランドスラム8度の優勝を含め25のタイトルを手にしている。息の長い選手だった。16年のシーズン終了後にモヤをコーチに招聘(しょうへい)、ストロークを再調整し、ネットプレーを絡めたプレースタイルの改造効果と考えられ、ここにも共同体の信頼関係がうかがえるだろう。

4回目の優勝となった2019年全米の表彰式でのナダル陣営の関係者席。前列左端がコーチのモヤ、前から2列目の右端から順に妻のマリア・フランシスカ、妹のマリア・イサベル、母のアナ・マリア・パレラ、3列目の右から3人目が父のセバスティアン(敬称略) 撮影:真野博正

「メンタルはトレーニングするものではない」

WOWOWが「太陽の男 ラファエル・ナダル」というドキュメントを制作したのは2010年のことだ。ジャパンオープン初出場に向けた番組制作だが、その年のナダルは5度目の全仏タイトルに続き、ウィンブルドンでも2度目の優勝を飾り、人気は沸騰していた。頭を悩ませたスタッフは、とりあえずマジョルカに飛び、アポなしでマナコルの自宅に行った。マンションの前庭で何かの準備をしていた住人に尋ねると、ラファは釣りに行ったという。父セバスティアンだったようだが、日本から来たと聞くと、「夕方にここで食事をするから来ればいい、ラファも来るし」。

スペインの夏は夜が長い。まだ陽が明るい19時頃に子供たちが集まり、どうやらそこでバーベキューが開かれるようだった。大人たちも三々五々にやって来て、ワインが振舞われ、炭の上に並べられた鶏肉、魚介類、パプリカの焼ける匂いが広場を包み、興奮して子供はかけ回り、犬は吠え、いつの間にか大勢の笑いと議論が高まった喧騒の中に、ラファが降りてきた。好物のエビをつまみ、話の輪に溶け込み、眉をしかめて意見することも。

ラファが「シスカ(フランシスカ)」と呼ぶ2歳下の妻マリア・フランシスカ・ペレロは妹の友人で同島育ち、付き合いだしたのは05年だ。マジョルカに帰るのはそのためとも言われたが、ある年から、ウィンブルドンの借家への同居滞在が公認された。嬉しそうだった。09年には両親が離婚するなど、大人も子供も一緒の空間、様々な価値観が交錯する共同体の中でチャンピオンは育った。

故郷という土台にこだわり、自分の生き方を崩さなかった競技姿勢が作り出した偉大なアスリート。日本で発した一言が印象深い。メンタルトレーニングのことを聞かれると、その言葉を初めて聞いたという顔で通訳に確認し、こう言った。
「メンタルはトレーニングするものじゃないよね」

メンタルはみんなで育てるもの、ラファはそう言いたかったのだろう。

2回戦のN.キリオス戦に勝利、咆哮するナダル(2019年ウィンブルドン) 撮影:真野博正

バナー写真:ナダルの強烈なヘビートップスピンは赤土で最も効果を発揮した 撮影:真野博正

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