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【単独インタビュー】 テニス界の黄金時代を最も間近で見てきた男:カルロス・ラモス(ITFレフェリー)

2024.10.15 / 武田 薫(スポーツライター)

「スタジアムで興奮していないのは私一人でありたい」

錦織圭は2024年9月14日、7年ぶりに日本のファンの前でプレーした。連日満員で賑わった2024国別対抗戦デビスカップ・ワールドグループ1部、日本対コロンビア戦を責任統括したレフェリーが、ITF(国際テニス連盟)レフェリーのカルロス・ラモス氏。ゴールドバッジ審判員(ITFが認定する最高ランクの審判員)として、4大大会すべてでチェアアンパイア(主審)を務め、加えてオリンピックの決勝(2012年ロンドン大会男子シングルス、アンディ・マレー対ロジャー・フェデラー戦)でも審判台に上がった。選手が4大大会制覇(グランドスラム)に加え五輪で金メダルを獲得することを「ゴールデンスラム」と言うが、審判が4大大会の決勝と五輪決勝の主審を務めることを「アンパイアー・ゴールデンスラム(umpire golden slam)」と呼ぶ。これまでにアンパイアー・ゴールデンスラムを達成したのは、ラモス氏を含め男女合わせて4人しかいない。

「私は2023年春、故国ポルトガルのエストリルオープンを最後に主審の職を退き、いまはITF(国際テニス連盟)のレフェリーとして、デビスカップをはじめデビスカップ(以下、デ杯)・ジュニア、ビリージーン・キングカップ・ジュニアなども担当しています。主審としての現役最後の大会では地元の皆さんに祝福され、とても感動しました。生まれたのはポルトガルの旧植民地モザンビークで、3歳の頃にリスボンに戻りました。少年時代はスポーツに夢中で、本当はサッカー選手になりたかったんです。エウゼビオ(注1)は直には見ていませんが、少年時代に強かったFCポルトのファンで、ゴールキーパーでした。でもこの身長(178㎝)ですから、レギュラーとして活動するのは難しく、テニスに転向しました。ポルトガル語ではテニスタと言いますが、テニスプレーヤーになりたかったので、よもやこういう人生になろうとは思っていませんでした」

2024デビスカップ日本対コロンビア戦で統括責任レフェリーを務めたカルロス・ラモス氏(右) 撮影:真野博正

小遣い稼ぎで始めた線審の仕事

初めて主審を務めたグランドスラムの国際大会は1991年の全米オープンで、当時、19歳だったという。そこから32年、4大大会の主審だけでも150試合を担当し、男女の決勝は10試合。その他にも5度のデ杯決勝で主審を務めた。

「細かな記録は覚えない主義。忘れることもジャッジの仕事では大事なことのように思います。少年時代には、選手としてあちこちの国内大会でプレーしました。私の家は中流家庭でしたから、自分の小遣いを工面しながら用具や交通費を捻出していたのですが、ある時、アルバイトでラインジャッジ(線審)をやらないかと誘われました。1987年、16歳の時です。ポルトガルがEU(欧州連盟)に正式加盟したのは86年ですが、それまでも段階的に国際交流が始まっていて、テニスだけでなく国内で様々なスポーツの国際大会が増えつつありました。そのため審判が不足していたのだと思います。エストリルオープンの前身であるポルトガルオープンが始まったのは1990年で、最初の仕事はチャレンジャー大会です。遠征費などの助けになりましたが、何よりも最初から審判という仕事が気に入ったし、自分に合っていると感じました。審判員制度は国それぞれなのですが、私の場合は資格を取るのにポルトガルテニス協会も協力してくれました。EU加盟後のスポーツ界の流れから、協会にとっても審判育成は急務で、私にとってはいい試合を見ることができるし、わずかながら収入にもなった。いわばウィンウィンの関係の中で、多くの試合でジャッジする機会に恵まれました」

冷戦終結とEU拡大の波に乗って、テニスの世界ツアーは80年代後半から一気に隆盛期を迎えた。ポルトガルは欧州大陸の辺境の地であったが、ラモス氏のキャリアはまさにその上昇気流に乗ったものとなった。

「私が線審を始めた頃に、ボリス・ベッカーやステファン・エドバーグが活躍し始めました。男子だけでなく、女子はシュテフィ・グラフ、モニカ・セレシュ、アランチャ・サンチェス・ビカリオ、マルチナ・ヒンギス、後にベルギーからはキム・クライシュテルス、ジュスティーヌ・エナンが出てきました。テニスの黄金時代と言っていいでしょうね。それからロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチ、女子はウィリアムズ姉妹にマリア・シャラポワらのロシア勢。その間、日本からも伊達公子や松岡修造が登場しましたね」

黒子に徹した32年間

自分の審判員としてのキャリアを彼はこう振り返る。

「私は恵まれていました。審判に必要なものは才能ではなく、ボールをしっかり見て正しい判断を下す、それだけだと思います。そのためには集中力が求められ、“私”を排除する必要があります。選手やコーチ、観客などの個別性を忘れるバランス感覚が大事ではないか。選手は判定に抗議し、審判に対して激しい言葉を投げかけることがあります。多くの場合、それは私という個人に対する暴言ではありません。選手もコーチも満場の観客も、選手の放つ1球にスタジアム全体が興奮している中で、主審だけは冷静でいなければいけない。興奮していないのは私だけでいたい、常にそう思っていました。オーケストラの指揮者のようにも見えますが、(指揮者とは違い)目立ってはいけないんです。いたかいなかったか分からない、そうなることで、試合はエキサイトし、プレーヤーを華やかにするのです。そんな存在であるために必要なのは何よりも経験です。主審はチャレンジャー大会の線審時代から多くの試合、たくさんのボールを見て学び、目を肥やし、育ちます。私は時代と共に多くの素晴らしいプレーヤーと経験を積むことができ、それだけ大きな自信を得ることができました。とても幸福だと思っています」

ラモス氏が見届けてきたこの32年間、テニス界を取り巻く状況は大きく様変わりした。パワー&スピードアップによるプレーの飛躍的な進化、多くの個性豊かな魅力あるスター選手の登場、グローバル化の影響によりテニス人気は急速に高まり、賞金額は高騰。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表した2023年の女性アスリート収入ランキングでは、10位以内に9人のテニスプレーヤーがランクインするなど、テニスは巨額のマネーが動くビッグビジネスと化した。1球の判定の重みが増す中、判定のトラブルで試合の進行が妨げられないように、ホークアイ(審判を補助する電子システム)といった、最新テクノロジーの導入によって線審が不要になるなど、経験を積んだ審判による裁定の領域が狭められつつある。それについて思うところはあるだろうか。

「ELC(Electric Line calling)と呼ばれる電子判定は至って単純な話ではないでしょうか。線審のいるチャレンジ方式(審判員のイン・アウトのジャッジに不服があった場合、選手は主審に異議を申し立て、ビデオ判定に持ち込むことができる)、線審なしの電子判定がありますが、ハードコート、グラスコートでのELC導入は成功しているように思います。私は、クレーコートでのELC方式はほとんど経験していないので意見は言えませんが、総じてテニス界にとってはいい流れではないか。時間が答えを出してくれるでしょう」

最大の注目を集めた全米オープン女子決勝

ラモス氏が主審として抜きんでた「特権」が与えられたのは、「厳格主義者」と評されるほどルールを厳格に遵守し、裁判官のように公平無私に試合を裁いてきたからだ。相手がどんなビッグネームの選手だろうと、課すべき罰則があれば毅然とペナルティを課してきた。そんな選手に対する忖度(そんたく)とは無縁の主審がかつてない大きな注目を集めたのは、2018年の全米女子シングルス決勝でのことだ。

「特に日本のファンには印象深いでしょうね」と振り返る試合は、メジャー通算24勝を目前にしたセレナ・ウィリアムズと日本人初のメジャー制覇を賭けた大坂なおみによる全米オープン女子シングルス決勝、審判台にはラモス氏が座っていた。

この試合、大坂は挑戦者らしい若さ溢れる攻撃で女王セレナを追い込んだ。第1セットを6-2で先取。第2セットの第2ゲーム、大坂のサービスゲームの40-15で、ラモス主審はセレナに「コーチング」の違反行為で警告を発した。セレナの陣営席にいたパトリック・ムラトグルー・コーチのボディーアクションをとらえ、コーチングと断じたのだ。

ここではそれほどもめず、第4ゲームをセレナがサービスブレークして3-1とリード。ところが大坂が第5ゲームにブレークバックし3-2になると、セレナがラケットをコートに叩きつけて破壊。これで2度目の警告でポイントペナルティーを受ける。大坂は15-0で始まった第6ゲームをラブゲームでキープ、その勢いで第7ゲームをブレークして4-3にしたところで、セレナはペナルティーについて激しく抗議を始めた。その中で「泥棒」「謝れ」「性差別主義者」などの攻撃的な言辞が発せられたため、3度目の警告、ゲーム・ペナルティーを宣せられて大坂の5-3に。不穏な空気の中で、そのまま世代交代劇は幕を下ろし、スタジアムは騒然となった。表彰式では激しいブーイングが飛び交い、セレナが「No more booing !(ブーイングは止めて)」と叫んで漸く沈静化した。

ムラトグルーは試合後、コーチングを認めた。「セレナは見ていなかったと思うが、コーチングは事実だ。サーシャ・バイン(当時の大坂のコーチ)もやっている。主審(ラモス氏のこと=編集部注)は男子のレフェリーで、彼は今まで男子の試合でコーチングを取ったことはない」と反論し、性差別と訴えた。

しかし、ルール違反は明白な事実で、抗議も遅れ、裁定は覆らなかった。

英国のテニス記者、スチュアート・フレイザー氏はこの事件について、「ラモス氏は中心的な選手に対してルール違反を宣告すべき時に宣告することを恐れない数少ない審判の一人だ。同僚たちが何もしないことで彼を失望させており、それが選手たちに(自分たちは=編集部注)不当な扱いを受けていると感じるような状況につながっている」とラモス氏を擁護している。

「あの試合に関して、私がいま改めて話すことはありません。先ほどお話ししたように自分の判断を下しただけです。正しかったか間違いだったかは皆さんの判断になります。あの判断もまた、32年のキャリアを支えた経験に基づいたもので、その経験が素晴らしいプレーヤーの身近にいることで積み上げられたものなのです」

OSAKA Naomi JPN [20] def WILLIAMS Serena USA[17] 6-2 6-4 FINAL 08 Sep. 2018 US Open 2018 USTA Billie Jean King National Tennis Center New York, NY USA Photographer / MANO,Hiromasa ©MANNYS PHOTOGRAPHY of Tokyo mannys@mannysjp.com
2018全米女子シングルス決勝、主審のカルロス・ラモス氏(審判台)から受けたペナルティに抗議するセレナ・ウィリアムズ(左) 撮影:真野博正

思い出深い3つの試合

これまでのキャリアの中で思い出深い試合を挙げてもらった。

「私はテニス選手を目指し、テニスが好きですから感動もします。主審をした試合で特に思い出す試合が三つあります。まず2004年のスペイン対アメリカのデ杯決勝、会場がセビリアのサッカー場で、史上最高の観客動員数(27,200人)と言われた大観衆でものすごい熱気でした。ラファのスペインがロディックのアメリカに勝ちました。もちろん、メジャーで初めて決勝の主審を務めた05年の全豪も忘れられません。マラト・サフィン(ロシア)が地元期待のレイトン・ヒューイットを倒しました。06年の全米、アンドレ・アガシの最後の試合と言われたマルコス・バグダティス(キプロス)との2回戦も、ものすごい熱気でした。バグダティスはその年の全豪で準優勝し、ウィンブルドンはベスト4、下馬評では圧倒的に有利、アガシの最後の試合になるだろうと言われていましたが、アガシがフルセットの末、勝ちました」

世界中を転戦するプロテニスツアーの審判員は旅人でもある。旅した中で一番愛着があるのはどの都市だろうか。

「一年中、世界各地の都市を旅しました。故郷のリスボンが一番ですが、メルボルンは印象深い街でしたね。南半球の夏、歴史的に多様性に富んだあの街全体からエネルギーを感じました。食事もコーヒーも美味しく、街全体がテニスで元気になるような1月です。最初のグランドスラム決勝を審判した大会で、いつもいい仕事ができたと思える大会でした。テニスは素晴らしいですね」

ラモス氏はかつて一度、転職を考えたことがあるという。

「妻とは少年時代にテニスをやっていたクラブで知り合いました。2人目の子供が生まれた2002年頃、一度、転職を考えました。家庭を離れる時間が余りにも多すぎた。でも、妻はテニスが好きだったし、私の仕事も理解してくれ、彼女自身もプロモーションの仕事をしながらサポートしてくれました。とても感謝しています」

時代と共に選手の技術は向上し、観客の目は肥え、プレー環境は変わり、ルールも変わる。審判がルールを作るわけではないが、熱狂するスタジアムのチェアに座り、ただ一人熱狂せずに試合進行を担う存在は、まるで漆黒の闇の大洋を照らす灯台のようだ。大坂なおみのグランドスラム初制覇を縁取った騒動を経て、コーチングの規制は大幅に緩和された。人の世は変わるのだ。

「セクシャリストではないですよね」という言葉に返答はなかった。あれはコート上での行き違いであり、過ぎたことだということなのだろう。                    

(注1)エウゼビオ・ダ・シルヴァ・フェレイラ。旧ポルトガル領モザンビーク出身のサッカー選手で、66年のイングランド・ワールドカップで得点王(6試合出場で9得点)となり、ポルトガルの3位に貢献。「モザンビークの黒豹」と呼ばれ、日本の釜本邦茂が目標にしたことでも知られる。

バナー写真:デビスカップ日本対コロンビア戦が行われた有明コロシアムの会場内にてインタビューに応じたカルロス・ラモス氏 撮影:武田薫

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