テニス名プレイヤー列伝 第9回 ボリス・ベッカー
パワーサーブ&ボレーで新時代を築いたゴールデンボーイ
1985年のローランギャロスを制したのはマッツ・ビランデルだった。20歳にして4度目のメジャー制覇だ。大会後のプレスルームで、2週間後のウィンブルドンの優勝予想を聞いて回った。圧倒的にジョン・マッケンロー、マルチナ・ナブラチロワの名が挙がる中、聞き慣れない名前が出た。88年、64年ぶりにテニスがオリンピック競技種目に“復帰”したソウル五輪で金メダルを手にすることになるミロスラフ・メチージュ(当時21歳、チェコスロバキア)、そして17歳のボリス・ベッカーに△をつけた記者が3人いた。ボリスがクイーンズ・クラブ選手権(芝)でツアー初優勝を飾る前週のことである。
全仏オープンから2週間後(当時)の6月24日から始まったウィンブルドンの決勝は、そのベッカーと、記者席でもわずかながら名前が出た南アフリカ共和国出身のケビン・カレンだ。カレンは米国テキサス大オースティン校に留学してNCAA(全米大学体育協会)の大会で活躍。当時の南アはアパルトヘイト(人種隔離と差別制度)政策を理由に国際試合への出場が制限され、自由にプレーできる米国の市民権を得るには何らかの社会貢献が求められた。前年暮れ(当時)の全豪オープン準優勝には25歳の切迫感が込もっていたし、晴れて米国市民として出場したウィンブルドンでは、4回戦からステファン・エドバーグ、マッケンロー、ジミー・コナーズを次々に倒して最終日にコマを進める躍進を見せた。
そのカレンの妻が記者席の最前列で爪を噛みながら見つめる眼前で、ベッカーは火の玉のようだった。渾身の力でサーブを叩きつけてネットダッシュ、リターンボールに向かってダイビング……東洋の魔女(1960年代のバレーボール全日本女子代表に名付けられたニックネーム)のような回転レシーブを繰り返し、「白を基調とした」を謳(うた)う聖地の規則にもとるほど、ウェアは芝土まみれだった。ふてぶてしく、けんか腰で、コートチェンジで相手に肩がぶつかることも。客席からは「arrogant(傲慢)」というひそひそ声さえ聞こえたが、頓着などしない。黄金のマッシュルームカット、白い肌の奥の鋭い眼光。絶対の自信をボールに詰めこんだダブルファーストサーブにセンターコートは息をのみ、後に“ブーンブーン・ボリス”という異名が定着した。サービスエース21本、6-3、6-7、7-6、6-4で勝負を決めた。
17歳7カ月の大会最年少優勝、史上初のノーシードからの偉業達成、初のドイツ人チャンピオン――テニスの聖地を埋めた紳士淑女の厳(おごそ)かな拍手に向かって、両こぶしをつき上げ吠える若獅子。その時、ボルグが跪(ひざまず)いた時代は過去になった。
マッケンローはこんな感想を漏らしている。
「あんな力任せのサーブは、ウッドラケットで育った我々には考えられない。スイートスポットを外せばラケットが折れるという良心があった。ボリスにはそれがちっともない。心から叩きつける」
テニス界の節目となった1985年
振り返れば、1985年はテニス界の節目だったのだ。世界ツアーを展開していたテニスが世相を反映するなら、85年は歴史の節目だったかもしれない。
アメリカ勢が支配的だったツアーに、ビヨン・ボルグの影響下にスウェーデン勢が大挙して大陸武者修行をして台頭。ビランデル、ヨアキム・ニーストロム、アンダース・ヤリード、ヘンリク・サンドストローム、米国帰りのミカエル・ペルンフォルス……クレーコートを中心にした北欧の泥臭いストローカーの流れを変えたのが、ドイツのベッカーであり、ロンドンのトニー・ピッカードの指導下で力をつけたステファン・エドバーグだった。振り返れば、ボリス戴冠の1年前、84年のロサンゼルス五輪の公開競技で優勝したのがエドバーグ、そして女子の優勝者は西ドイツのシュテフィ・グラフだった。
ボリス・ベッカーは1967年11月22日、西ドイツ南西部のバーデン・ヴュルテンブルク州ハイデルブルク近郊のライメンに生を得た。「ベッカー」はドイツ語で「パン屋」だが、父は町のテニスセンターの設計を手掛けた建築家で、ボリスは7歳の頃にそこでテニスを始めた。77年に州のジュニアチームに、翌78年にはナショナルのジュニアチームに選抜され、13歳だった81年に既に代表チームに呼ばれている。
この時期、西ドイツはテニスの強化に取り組んでいた。2歳下のグラフはボリスと同じ州のマンハイム出身で、13歳で18歳以下のヨーロッパ・チャンピオンになってプロ転向する。1歳下のミヒャエル・シュティヒは北部のピナベルク出身で、6歳からテニスを始め、後にノバク・ジョコビッチらを育てるニキ・ピリッチのミュンヘンのアカデミーで育った。こうしたテニス環境で引き合いに出されるのが沢松奈生子だ。ウィンブルドンのダブルス・チャンピオンの沢松和子が叔母で、両親とも選手という家柄だが、テニスを始めたのは父親の転勤先だったデュッセルドルフ。78年から82年まで、まさにベッカー、グラフと同じ空気で育っている。母親の順子さんは「西ドイツでなかったらテニスはやらせていなかったと思う」と述懐したものだ。
戦前こそ、ドイツは全仏で優勝したゴットフリート・フォン・クラム、ヘンナー・ヘンケルの名を残すが、戦後、西ドイツはそれまでトップ選手をほとんど輩出していなかった。85年のウィンブルドンだけでなく、89年の全米オープンも、91年の全豪も、ベッカーがドイツ人では最初のチャンピオンだ。中でも国別対抗戦、デビスカップでの活躍は西ドイツ国民を熱狂させた。85年の決勝ではスウェーデンに敗れこそしたが、ベッカーはビランデル、エドバーグにシングルスで2勝。再びスウェーデンと決勝で相まみえた88年は単複で勝って祖国に初優勝をもたらし、同じ顔合わせになった89年の3度目の決勝対決も単複で3勝して連覇に貢献している。デ杯の通算個人成績は54勝12敗。ダブルスは16勝9敗ながらもシングルスは38勝3敗、シングルスの勝率は93%、母国の威信をかけて戦うことを意気に感じる青年は絶大な人気を獲得した。
東西統合(1990年)を経てドイツの絶頂は91年のウィンブルドンだ。第6シードのシュティヒが準々決勝で全仏優勝者のジム・クーリエをストレートで倒し、第1シードのディフェンディングチャンピオン、エドバーグを4-6、7-6、7-6、7-6、一度もサービスブレークすることなく破って、決勝はベッカーとのドイツ対決。シュティヒがストレートで勝った。シュティヒも期待されたジュニアで、本格的に取り組み始めたのは1歳上のベッカーの活躍を見た16歳から。犬猿の仲と言われたが、2人は92年のクレーコートのバルセロナ・オリンピックでタッグを組み、祖国にダブルスの金メダルを持ち帰っている。グラフによる88年のゴールデンスラム(四大大会&五輪優勝)の快挙もあった。ウィンブルドン、デ杯、オリンピック効果はすさまじく、ドイツから入るテレビ放映権料がATPの年間予算の7割を占めたと言われるほど盛り上がった。
グランドスラム6回を含みツアー通算優勝は49回。サーフェスによる内訳は、ハードコート16、芝7、室内カーペット26でクレーコートでの優勝はない。渾身のパワーテニスを反映した数字だが、最も活躍した85年から92年が、ベルリンの壁が崩れ、冷戦体制の崩壊をまたいだ時期と重なる共時性は意味深長だ。航空路の飛躍的な発達、衛星放送の普及に伴った旧社会主義国との活発な人的交流……世界が近くなった時代背景があり、時代に醸(かも)し出されたテニスのオールシーズンの需要にベッカー人気ははまった。
キャラが好対照なエドバーグとのライバル関係
そして、スポーツの世界で一人だけの進歩はあり得ない。ましてやテニスはネットを挟んだ2人、もしくは2組のラリーで互いの美点を引き出すゲームだ。ボリスには格好のライバルがいた。
まずは、コナーズ、マッケンローに頭を抑えられていたイワン・レンドルだ。宿敵マッケンローが下降線をたどり始めたのが85年から。そこに飛び出してきた7歳下の“若造”を相手に、レンドルは伸び伸びとパワーテニスを発揮した。85年の対戦成績はレンドルの4戦全勝だ。ところが、翌86年にはベッカーがウィンブルドンの決勝を含め2戦2勝している。ウィンブルドンを我が庭のごとく振る舞い、88、89年の対決もベッカーに軍配が上がり、レンドルが喉から手が出るほど欲しかったウィンブルドン・タイトルの夢を打ち砕いている。
新旧のパワー対決に割って入ったもう一人のライバルがエドバーグだ。同じサーブ&ボレーヤーでも全く別のタイプ。闘志むき出しの腕白なベッカーに対し、エドバーグは物静かで貴公子風な好男子。対戦成績はエドバーグの2連勝で始まり、85年からはベッカーが7連勝。レンドルとビランデルを追い上げる好対照な若者の切磋琢磨は、主戦場がウィンブルドンだっただけにテレビ映えした。2人は3年連続で聖地の最終日を戦っている。
88年、準決勝でレンドルを倒し3度目の優勝を窺ったボリスは19歳、メチージュを退けたエドバーグは21歳……雨が興奮に水を差した2日間の戦いは、大方の予想を覆してエドバーグが4-6、7-6、6-4、6-2で勝ち、初優勝を遂げた。翌89年の決勝の再現はボリスがストレートで決着をつけると、3度目となる90年、再びエドバーグがフルセットの末に王座を奪い返し、一足先に世界ランキングの頂上に到達した。そこから計11回の対戦でベッカーは10勝1敗と圧倒し、通算25勝10敗で大きく勝ち越す。
英・米・豪・仏のグランドスラム開催国4カ国にスウェーデンが加わり、ドイツが割って入り、テニスの野火は欧州連合(EU)構想の高波に乗って、スペイン、ロシア、クロアチア、ブラジル、セルビア、スイス、中国……ベッカーという口火のダイナマイトを合図に世界ツアーは驀進(まいしん)した。
現役引退後も注目を集めるカリスマ
才能と情熱、知名度はラケットを置いてからも話題を振りまき続けた。英国国営放送BBCで達者なコメンテーターを務め、コーチの手腕も発揮している。2014年から16年までノバク・ジョコビッチの陣営に加わり、ジョコビッチ念願の全仏を含むメジャー6大会とATP1000の14大会のタイトル獲得に貢献している。ホルガー・ルーネ(デンマーク)の「復活」にも力を貸した。23年、好調だった前半戦から一転、ウィンブルドン以降は7大会で1勝と大不振に陥ったルーネ。ところがベッカーが10月にチームに加わると調子が上向き、ツアー最終戦「Nitto ATPファイナルズ」にも出場を果たすほどに復調した。
ただ、この男の自由奔放は半端ではない。ポーカーのプロ、結婚・離婚を繰り返したのはさておき、ビジネスに手を出しては失敗。挙句の果てに脱税で有罪宣告されイギリスの刑務所に8カ月服役した。23年暮れに仮釈放されたが、国外追放処分になり、当分は英国には入れない。最近、こんなコメントを出した。
「ウィンブルドンは僕の棲家(すみか)だ。皆が知っている通り、僕の人生であり僕のDNAだ。来年必ず戻れるよう、あらゆる努力をしている」
実現すれば、ウィンブルドンのセンターコートは万雷の拍手と満開の笑顔で迎えるだろう。泥だらけになって挑戦した、燃える闘魂、吠える獅子のパシオン……あの情熱を誰も忘れはしない。
バナー写真:「ブーンブーンサーブ」が代名詞となったベッカーは、球足が速い芝コートでは絶対的な強さを発揮した T.Nakajima/Mannys Photography