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2024年ウィンブルドン・レビュー 聖地の芝が醸成する予定調和と混沌

2024.07.27 / 山口奈緒美(テニスライター)
撮影:佐藤博

 

優勝が決まった瞬間、天を仰いで両手を突き上げるクレイチコバ 撮影:佐藤博

レジェンド達が参列したマレーの引退セレモニー

できることなら、大好きなテニスを永遠に続けたかった———。

男子シングルスで77年ぶりのイギリス人チャンピオンの座に上り詰めたアンディ・マレーの引退セレモニーでの言葉に、1万5千人の観衆が泣いた日、英国テニスにとっての最も幸せな時代が終わりを告げた。世界のどの場所よりも肥えた目とマナーを誇っていたウィンブルドンのファンは、「我らがヒーロー」の出現によってこの20年間、それまで知らなかった種類のテニスの熱狂と悲哀を味わったに違いない。 そして、テニスの聖地はより熱く、より温かくなった。

その日、2回戦を突破していたノバク・ジョコビッチはジョン・マッケンローやマルチナ・ナブラチロワなど多くのレジェンドたちとともに、この同い年のライバルの花道に立ち、去りゆくライバルを長年の友の顔で見つめていた。ジョコビッチが全てのグランドスラム大会で決勝を戦った唯一の相手は、ロジャー・フェデラーでもラファエル・ナダルでもなく、このマレーだ。グランドスラムの決勝だけで7回戦い、結果はジョコビッチの5勝2敗。ジョコビッチと同世代でなければ、マレーのメジャータイトルが3つに終わることはなかっただろう。しかし、だからこそマレーのあの歴史的優勝には計り知れない価値がある。決勝の相手はジョコビッチだった。

ジョコビッチがウィンブルドンの決勝で敗れたのはその2013年と、23年のカルロス・アルカラスとの一戦だけだ。ついに「ビッグ4」の最後の一人となった37歳は、その寂寥(せきりょう)感と、わずか3週間前に手術をしたばかりの右膝の不安を纏(まと)いながら、2年ぶり8度目の栄冠を目指して歩を進めた。第15シードの21歳、ホルガー・ルーネとの4回戦をストレートで突破すると、第9シードのアレックス・デミノーの棄権によって準々決勝は不戦勝と運も味方につけた。グランドスラムの準決勝に初めて勝ち上がってきたイタリアの22歳、ロレンツォ・ムゼッティをストレートで下して、18年から続くウィンブルドンでの連続決勝進出の記録を伸ばした。

アンディ・マレー(中央)の引退セレモニーに参加、花道を作ってマレーを見送るルーネ、ジョコビッチ、C.マルチネス、ナブラチロワ(左から) 撮影:佐藤ひろし

精彩を欠いたジョコビッチ

決勝の相手は23年と同じくアルカラスである。21歳のディフェンディング・チャンピオンは、フランシス・ティアフォーとの3回戦、そして第5シードの元王者ダニール・メドベージェフとの準決勝でフルセットを強いられたが、第5セットでの圧倒的な勝率を誇る勝負師はその真骨頂を見せていた。

ナダルの不屈の闘志、フェデラーの華麗な攻撃力、そしてジョコビッチの鉄の守備力を併せ持つとも言われるアルカラスは、その描写に違(たが)わないプレーでジョコビッチ相手に最初の2セットを支配した。ジョコビッチのほうは明らかにグランドスラムの決勝でいつも見せる姿ではなかった。完全にコントロールしているポイントも最後に不用意なミスで落としたり、珍しく勝負どころで集中力を欠いたプレーも目立った。第3セットの終盤、アルカラスのトリプルのマッチポイントから5ポイント連取でブレークバックしてタイブレークまで持ち込んだが、通常ならジョコビッチが必ず逆転に成功するパターンも、この日のアルカラスが相手では本人が言った通り「試合時間を少し長引かせた」に過ぎなかった。

「手術を経て、ウィンブルドンの決勝までこられたことは大きな自信になる。でもヤニク(・シナー)と並ぶ今最高のプレーヤーと今日対戦して、彼らのレベルに僕は達していないと感じたよ」

ジョコビッチがグランドスラムで2年連続して同じ相手に敗れたことはない。シナーにも2連敗中だ。思わず吐いた旬の若者たちへの敗北の言葉が意味するものは、時代の真の終焉なのか、最後の偉大な挑戦への狼煙(のろし)か。サイボーグとも呼ばれた完全無欠の王者には、男女を通して史上最多記録となる25度目のグランドスラム優勝という偉業、そしてまだ手にしていないオリンピックの金メダル獲得という大仕事が残る。

手術した右膝にサポーターを巻いてプレーしたジョコビッチ。決勝では本来のフットワークを発揮しきれなかった 撮影:佐藤ひろし

史上最年少記録を次々更新するアルカラス

アルカラスは決勝で一度も負けないまま4つ目のグランドスラム・タイトルを手に入れた。これを上回るのは、歴代王者の中でもフェデラーしかいない。フェデラーは06年の全仏オープンで初めて準優勝の味を知るまでに7つのメジャータイトルを集めていた。しかしそのフェデラーとて4つ目のタイトルを獲得したのは23歳1カ月のときで、ナダルはそれよりも早い22歳だが、21歳2カ月のアルカラスはさらに若く、その獲得ペースは史上最速だ。また、グランドスラムでのビッグ3以外の大会連覇は、2000年と01年の全仏オープンを制したグスタボ・クエルテン以来23年ぶりであり、ウィンブルドンでは00年に4連覇を達成したピート・サンプラス以来となる。同年に全仏オープンとウィンブルドンを制した最年少の選手にもなった。

「最年少の記録をいろいろと耳にするけど、最年少で成し遂げたことよりもこれから続けていくことのほうが大事だと思っている。キャリアが終わるとき、偉大な選手たちと同じテーブルについていたい。それが今の僕の目標であり、夢なんだ」

壮大な目標も彼のスケールを表している。若き2強時代へ流れが加速する中、私たち日本のファンも長年の「我らがヒーロー」の晴れの舞台をせめてもう一度見たいと願わずにいられない。錦織圭が3年ぶりにウィンブルドンに戻って来た。5セットをフルに戦った挙句に初戦突破はならなかったが、狙いは夏のハードコートシーズン、そして全米オープンだ。リハビリ中のケガ、さらには復帰直後のケガ、ともどかしい状況にありながらも、「努力してモティベーションを絞り出しているわけではない」と以前話していた。「体が尽きるまでやるんだろうな」とさらっと口にする精神のスタミナと純粋さは、冒頭の台詞に声を震わせたマレーにも通じるものがある。

日本勢は錦織の他も2回戦までに男女5人全員姿を消し、得意の女子ダブルスでも振るわなかったが、22年から設けられた14歳以下のカテゴリーで日本の川口孝大(たかひろ)が優勝した。より早い年代から芝という特殊なサーフェスを経験させ、プレーの質を高めることを目的に始まったカテゴリーで、男女それぞれ16人が出場したが、その試みの成果はまだわからない段階だ。アルカラスがお手本という14歳のレフティは、いつかそれを実証することができるだろうか。先は長いが、楽しみの種が一つ増えた。

表彰式で授与されたトロフィーを抱え、場内を見回すアルカラス 撮影:佐藤ひろし

2024ウィンブルドン男子シングルス決勝

〇アルカラス 6-2、6-2、7-6(7-4) ジョコビッチ

                      ◇

クレイチコバは闘志を前面に押し出し、主導権をパオリーニに渡さなかった 撮影:佐藤ひろし

サバレンカ欠場が与えた影響

不振だった日本勢の中でも、全仏オープンでの戦いぶりから大いに期待されていただけに落胆も大きかったのは、大坂なおみの2回戦敗退だ。勝った第19シードのエマ・ナバーロは4回戦で第2シードのココ・ガウフも破ってグランドスラム初の準々決勝に進出し、ベスト8の中には予選上がりのルル・スン(ニュージーランド)の名もあった。第3シードのアリーナ・サバレンカが大会初日に欠場したことによるボトムハーフの波乱の予感は的中したが、結局、ここを抜け出したのは、全仏オープンの準優勝が記憶に新しいジャスミン・パオリーニだった。プレースタイルを考えれば、意外性は赤土での快進撃以上だろう。実際、過去3回出場して一勝もしていなかったが、実は過去2年の1回戦の相手は優勝2回を誇るペトラ・クビトバだった。いずれもセットを奪う健闘を見せている。

「コーチは私に芝でもやれるはずだと言ったわ。完全に信じることはできなかったけど、(前哨戦の)イーストボーンでいい感触があった。グラスコートではサーブとリターンがカギで、守りに入らずすべてのポイントを自分で動かしていくように強打を心がけているつもり」

2023年優勝のマルケタ・ボンドロウソバも、それまでウィンブルドンで2回戦を突破したことがなかった。クレーでの成功者にとって、芝にそびえる壁は些細なきっかけと意識の転換で取り払われるのかもしれない。

トップハーフも決して順当ではなかった。ボンドロウソバが1回戦で敗退し、四大大会の中で唯一ウィンブルドンではベスト4以上に残ったことがない女王イガ・シフィオンテクが3回戦で35位のユリア・プティンツェワに逆転負けを喫した。大本命と目された22年優勝のエレーナ・ルバキナは順当に準決勝へと駒を進めたが、第4シードの前に立ちはだかったのが第31シードのバルボラ・クレイチコバだった。

21年の全仏チャンピオンのクレイチコバもウィンブルドンは過去ベスト16が最高で、芝が得意という印象はない。加えて今シーズンは背中のケガの影響もあり、全仏オープンを含めて5大会で初戦敗退と不振だった。

グランドスラム2大会連続の決勝進出を果たしたパオリーニ。世界ランクも5位になるなど一躍トッププレイヤーに躍り出た 撮影:佐藤ひろし

ノボトナとの師弟関係

予想外の決勝カードはクレイチコバのペースで始まった。グランドスラムで7度も頂点に立ったダブルスの名手だけあって球種や緩急の操り方が巧みだが、中でもパオリーニを苦しめたのが外へ逃げていくフォアハンドのクロスショットだった。ここぞというところではこのキラーショットを炸裂させ、第1セットを6-2で先取。トイレットブレークで気持ちを切り替えたパオリーニが第2セットを同じ6−2のスコアで奪い返すが、最終セットは第7ゲームでブレークに成功したクレイチコバが最後まであきらめないパオリーニの粘りを振り切った。

ロイヤルボックスにはウィンブルドンで9度の優勝を誇る祖国のレジェンド、マルチナ・ナブラチロワがいたが、チェコスロバキア時代の1975年にアメリカへ亡命したナブラチロワの衣鉢を継ぐように、初めてチェコの名をチャンピオンボードに刻んだのはヤナ・ノボトナだ。ファンの心を激しく揺さぶった93年の涙の準優勝から4年後に再び決勝で敗れ、翌98年についに悲願を遂げた。ガンとの過酷な闘病の末、49歳の若さで2017年に他界したノボトナがその晩年に目をかけたのがクレイチコバだった。死の淵で、まだグランドスラムに出場すらしたことがなかった21歳のクレイチコバにこう言い残したという。

「楽しむことを忘れないで。そしていつかグランドスラムを獲るのよ」

今大会前までスランプに陥っていたクレイチコバは、恩師が一番大切にしていたウィンブルドンではストレスから逃れて楽しもうと誓っていたという。そして、ノボトナの悲願の優勝から26年の時を経て、同じチャンピオンボードに名前を刻む夢を叶えた。

「すごくヤナに会いたいと思った。なんて言ってくれるかしら。ウィンブルドンは彼女にとってすごく特別なものだったから、私のことを誇りに思ってくれるはず」

2017年から毎年新チャンピオンが生まれているウィンブルドンにまた新たな名が加わった。かつてウィリアムズ姉妹がもっとも多く優勝したのがウィンブルドンで、ビーナスの00年の初優勝から16年のセリーナの最後の優勝まで二人合わせて12回も制している。その姉妹がトップを退き、現在の女王シフィオンテクがもっとも不安定なウィンブルドンは、どこよりも展開が読めない舞台になった。この状況はいつまで続くのか。

さて、例年ならここから夏のハードコートシーズンへという流れだが、今年はオリンピック開催のロランギャロスに一度戻るという変則的なスケジュールになっている。ビッグネームたちの調整力が試される後半戦だ。 

3回戦で敗退したシフィオンテクだが、世界ランク1位は堅持。パリ五輪でローランギャロスの「同一年連覇」はなるか 撮影:佐藤ひろし

2024ウィンブルドン女子シングルス決勝

〇クレイチコバ 6-2、2-6、6-4 パオリーニ

バナー写真:ポイントを決め、咆哮するアルカラス(上)。優勝が決まり、パオリーニと握手した後、天を仰いで両手を突き上げるクレイチコバ(下) 撮影:佐藤ひろし

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