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テニス名プレイヤー列伝

テニス名プレイヤー列伝 第4回 マルチナ・ナブラチロワ

2023.11.22 / 武田 薫(スポーツライター)
1992年イーストボーン大会でのナブラチロワ 撮影:真野博正

攻撃的テニス、革新的強化手法の導入、女子テニス史上最強の「鉄の女」

 

強さの淵源はアグレッシブ

日本のテニスファンは2014年の全米オープンを忘れていないだろう。

錦織圭が、日本選手として初めてグランドスラム大会のシングルス決勝の舞台に立ったのが9月8日。その2日前の準決勝では、第1シードのノバク・ジョコビッチを6-4、1-6、7-6、6-3の4セットで倒した。この大番狂わせが続く準決勝第2試合ロジャー・フェデラー対マリン・チリッチ戦への波及の予感でざわめく会場に、急にロマンチックな調べが流れた。スクリーンに誰もが知った顔が大写しになり、立ち上がったマルチナ・ナブラチロワが背の高い女性を紹介して、おもむろにプロポーズしたのだ。

「(ノバクの試合が)フルセットになったらどうしようか、気が気じゃなかった。ヤナ(ノボトナ)と組んだダブルスの試合が控えていたから」

同性愛者として知られたマルチナが永遠を誓ったパートナーは、16歳下の元ミス・ロシアだった。ワイングラスで乾杯し軽くキスを交わす2人に、場内から盛大な拍手と口笛が贈られた。

This is America. This is women’s tennis――“鉄の女”を象徴するサプライズだった。

2014年全米オープンの男子シングルスの準決勝が行われたセンターコートの観客席で、プロポーズをしたパートナー、ユリア・ミルゴバさん(中央)を紹介するナブラチロワ 撮影:真野博正

1970年にビリー・ジーン・キング(BJK)ら9選手による“1ドル契約”からスタートした女子テニスツアー(WTA)は、いまや賞金総額でも男子ツアーのATPと肩を並べる成長を遂げた。女子ツアーの旗振り役がBJKだったなら、70年代から80年代にかけ、その発展を推進し地歩を固めたのはマルチナ・ナブラチロワだ。シングルスのツアー通算成績は1442勝219敗、勝率87%、とにかく強かった。

73年の初めての米国遠征から2006年の全米の最終試合まで30年の足跡は、書ききれないほどの記録で埋め尽くされている。グランドスラムだけでもシングルス優勝は18回、ダブルスが31回、ミックス(以下、混合)ダブルスが10回、トータル59に及ぶ通算メジャータイトルは、オープン化以降では2位のセレナ・ウィリアムズの39を大幅に上回っている。単複3種目すべてで生涯グランドスラムを達成(「ボックス・セット」とも呼ばれる)したのは、オープン化以降では男女を通じてナブラチロワだけ(※1)。87年の全米では3冠を獲得。84年の全仏から87年の全米まで4大大会のシングルスで17回連続して決勝に進んで12勝5敗(※2)。同一年度の4大大会全制覇を意味した「グランドスラム」という言葉が、4大大会のそれぞれを指すようになったのは、この圧倒的な強さがもたらした“語源”ということはあまり知られていない。

シングルスで167、ダブルス177というツアー優勝回数は断トツの歴代1位。世界ランク1位の在位記録332週こそシュテフィ・グラフ(377週)に抜かれたが、84年9月に単複同時に頂点に立ったのは史上初の快挙で、2006年全米の混合ダブルスでは、49歳11カ月で女子選手によるメジャー最年長優勝も達成した(※3)。

アグレッシブ……攻撃性、積極性こそ、マルチナの強さの源だ。

テニスの伝統が息づくチェコ

1956年、チェコスロバキア(当時)の首都プラハの郊外ジェヴニーツァに生まれた。母は元体操選手、父はスキーのインストラクターという血筋の良さだが、両親は早くに離婚し、育ての父が4歳からテニスを教えた。マルチナの名は実父が働いていたスキーロッジ『マルチノーバ』からつけられ、チェコでは珍しい名前だったという。マルチナ・ヒンギスの名はチェコの同時代の選手だった母親がナブラチロワにあやかって命名したものだ。俊敏で攻撃的なプレーは幼くして注目され、両手打ちのバックハンドを片手打ちへ早々に変えてスタイルを確立、15歳で国家的なスポーツ総合クラブ、スパルタクラブに招かれた。

ヨーロッパ大陸のど真ん中に位置するチェコは、それゆえに複雑な近代政治に揉まれた。ハプスブルグ家の支配からナチスドイツに占領され、激しい独立運動が続いた。第二次大戦後、社会主義国家チェコスロバキアとしてスタートしたのが1960年、「人間の顔をした社会主義」を掲げたドゥプチェク第一書記の下で進められた自由化運動「プラハの春」が68年で、その夏には社会主義体制の崩壊を危惧したソ連が主導するワルシャワ機構軍が侵攻――この劇的な政変の最中にマルチナはラケットを振り始め、振り続けた。

チェコにはテニスの伝統があった。マルチナのメジャー初優勝は1978年のウィンブルドンだが、それ以前、既に男子は73年にヤン・コデシュが聖地の頂点に立ち、後に指導を受けるヘレナ・スコバの母ベラ・スコバは、62年のウィンブルドンで準優勝している。母方の祖母はベラに勝ったことがあるというから、テニス環境としては申し分なかった。

壁の向こうでプロ化が進むなか、社会主義体制下でテニス愛を育んだ最大の理由は、家庭環境、身近な理解に違いない。壁が厚く高いほど想いは募り、愛は激しく燃える。ただ、マルチナの前に聳(そび)えた壁はちょっと複雑な様相を呈していた。

コデシュ、スコバといったテニス協会をリードした先達は、マルチナの素質を見抜いて親身に壁を超える“はしご”を用意した。69年、当時の西ドイツで行われたクラブ対抗戦で初めて国境を越え、その後も、スパルタクラブの強化の一環でブルガリア、ソ連、東ドイツなど東欧諸国に遠征、72年にはチェコ選手権に勝ってイギリスの室内大会でも優勝。73年、初のメジャー挑戦だった全仏でいきなりベスト8入り、ウィンブルドンも3回戦に進出し、協会は米国の冬季ツアーへの派遣を決めた。

アマチュア選手が稼ぐ賞金は、日本を含めどの国の協会にも貴重な財源だったが、冷戦下、敢えて壁を越え、海を渡る“危険な旅”をスポーツの国家戦略とする解釈は馴染まないだろう。テニスは68年にプロアマ間の壁を取り払ってオープン化に踏み切り、コデシュ、スコバらは「開放された」聖地のセンターコートを経験していた。純粋に、16歳のナブラチロワに確信を抱き、夢を託し、祈るように壁の向こうに送り出したのだ。そして、彼らの見る目は正しかったのだが……。

冷戦時代を揺るがした亡命事件

日本のテニス界の国際化に貢献した人物に故川廷栄一がいる。関西の上流家庭に育ち、テニスとカメラを愛するあまり世界に飛び出し、テニスのフォトジャーナリストとなった。1975年の全米オープンの最中、その川廷が急に呼び出されてナブラチロワの顔写真を撮らされた。亡命のために使われたと後で知ったという。カメラマンは他にもいたが、欧米のカメラマンでは後に何がしかの問題が起きると懸念したのだろう。

冷戦体制下で国際的評価が高まれば高まるほど競技生活は窮屈になった。当時の東西の経済格差は天と地ほどあり、何より食料を筆頭とした消費財の質と量が圧倒的に異なった。それは我慢できても、問題は競技生活が制限されたことだ。海外遠征には国の許可が必要で、テニス協会を超えた圧力があった。西側への亡命は利敵行為に他ならず、祖国に残った親兄弟はもとより、キャリアを支えたテニス関係者に累が及ぶ。「プラハの春」で改革を求めた68年6月の「二千語宣言」に署名したエミール・ザトペック、ベラ・チャスラフスカ(※4)がどんな仕打ちを受けたか……もちろん知っていた。それでも……。

75年の全豪と全仏で決勝まで進んだ(※5)。全豪で敗れた相手は地元のイボンヌ・グーラゴング、全仏は2歳年上、20歳のクリス・エバートで、その年のウィンブルドン優勝者は最後のメジャータイトルになる31歳のビリー・ジーン・キング、そして全米は再びエバート……18歳のマルチナの目の前で、テニス界は明らかに世代交代を告げていた。テニスは彼女を必要としていた。

75年9月4日、全米オープン準決勝でエバートに敗れた試合後、ニューヨーク移民局に駆け込んで亡命の手続きをとった。極秘裏に進められたはずが、宿に戻った夜にはチェコのベラ・スコバから問い合わせの電話が入り、翌日の新聞は1面でデカデカと18歳のスタープレイヤーの亡命を報じた。テニスの背後で、いつの間にか政治が動いていた。その年の春にはレナータ・トマノワと共に女子の国別対抗戦、当時のフェデレーションカップ(現BJKカップ)に出場、祖国に初優勝をもたらし、国内で一躍脚光を浴びていた。この活躍が逆に、政府、協会の危機感を募らせただろう。亡命されれば衝撃は大きい。が、公知となった素質を国内に閉じ込めておくわけにもいかない……。

その年の全仏で初めて決勝に進んでエバートに敗れたが、そのエバートと組んだダブルスで優勝し、家族はウィンブルドンへの出国が認められた。その時、家族そろって亡命する話があったのだが、最後の最後に両親は思いとどまった。祖国を捨てることは高齢者ほど辛い。続く全米への派遣に対し協会は、大会が終わり次第すぐに帰国して学業に就くという条件をつけた。

出発の日、父にだけ「私は帰らない」と告げた覚悟の旅立ちだった。

全米会場のフォレストヒルズ(当時)で開かれた記者会見の模様を、自伝の中でこう振り返っている。

「新聞社との会見にのぞみました。まるで、それは動物園です。私はこれほど自分が注目されているとは思ってもみませんでした。『自由がほしかったんです』私はそういいつづけた」(『ナブラチロワ テニスコートが私の祖国』より)

1994年ウィンブルドンでのナブラチロワ。サーブ&ボレーの速攻スタイルはウィンブルドンと相性がよかった 撮影:真野博正

チーム体制の原型となったマルチナ軍団

クリス・エバートによれば、マルチナは80年代にテニスにマルチスポーツを取り入れた最初のプレイヤーだったという。筋力トレーニング、バスケットボールなどを練習に組み込み、さらに栄養面の専門家やスケジューリングにプロの意見も取り入れている。個人競技であるテニスに、今では当たり前になったチーム体制を初めて採用したのがナブラチロワだった。“マルチナ軍団”と呼ばれ、彼女自身はこの言葉を嫌う。というのは、不敗神話を縁取ったサポート集団は、勝利を目的にして作られた関係ではなく、マルチナの攻撃性と積極性が呼び込んだ、バラエティーに富んだ、自由な人間関係だからだ。女流作家のアドバイス、トランスジェンダー女性のコーチング、女子ゴルファーやバスケットボールの全米代表との付き合い……。

そして同時に、80年代という時代もマルチナ・ナブラチロワを求めた。

70年代後半からの米国を軸としたテニスの発展は、彼女のプレーに心地よかったはずだ。テレビ放映が始まったことでカーペットの室内大会が増え、全米オープンは78年からハードコートに移行し、テレビ放映枠がスピーディーな試合展開を追求するという流れは、まさにサーブ&ボレーを基調としたナブラチロワの攻撃的なプレースタイルにはまった。クリス・エバートという好対照のキャラクターとのライバル関係も、男子のボルグvsマッケンローと共鳴して分かりやすく、ファンを引き付けた。時代がナブラチロワを欲し、その米国の熱はバブルの波に乗った日本をも熱くしている。

ネットに突進するヨネックスR-22型ラケットは時代の象徴となって同社の世界進出を後押しし、マルチナもまた愛犬に「ヨネックス」と命名するほどギアとの一体感を表現した。一時、台頭したシュテフィ・グラフに対抗し、あえて同じアディダス製のラケットを握ったことは、根っからの勝利への執着心を物語り、チェコの冷戦時代に培われた強い意志、そのための周到な備えを感じさせた。

2003年全豪オープンの混合ダブルスで優勝し、ボックス・セットを達成。ペアのリーンダー・パエス(左)と共にトロフィーを掲げるナブラチロワ 撮影:真野博正

1994年のウィンブルドン決勝で、コンチータ・マルチネスにフルセットの末、敗れた。ベンチで涙ぐむ37歳にマルチネスが駆け寄って慰めた光景は何事かを物語り、その秋、事実上の引退をする。それでも2000年にダブルスで現役復帰すると、リーンダー・パエスと組んだ2003年の全豪混合ダブルスで優勝してしまう――4大大会の単複でたった一つ欠けていた空白を埋めたのだ。

己でつかんだ自由をとことんまで生きた。そして今も生き続けている。
(敬称略)

2023年東レパンパシフィック選手権の開催に合わせて開かれたヨネックス・テニスフェスティバル2023のエキシビジョンマッチに出場したナブラチロワ、小田凱人、国枝慎吾、伊達公子(右から 敬称略)
2023年東レパンパシフィック選手権の開催に合わせて開かれたヨネックス・テニスフェスティバル2023のエキシビジョンマッチに出場したナブラチロワ、小田凱人、国枝慎吾、伊達公子(右から 敬称略) 提供:YONEX

(※1)他に戦前のドリス・ハート、アマチュア時代のマーガレット・コート。オープン化以降とは、プロの参加を認めた1968年以降のこと
(※2)全豪は年末から年初に日程が変更され、86年は開催されなかった
(※3)パ―トナーはボブ・ブライアン
(※4)ザトペックは1952年のヘルシンキ五輪の陸上競技で5000m、1万m、マラソンの3種目で優勝し人間機関車の異名をとったチェコの英雄。チャスラフスカは64年東京、68年メキシコ大会の女子体操の金メダリスト
(※5)72年~76年の全豪オープンは年をまたいで開催された

バナー写真:真野博正

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