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トリビアクイズ

テニス トリビアクイズ

2024.10.23 /

1931年に行われたウィンブルドン男子決勝は、とある選手の足首のケガのためシドニー・ウッド(米国)の不戦勝となりました。ウィンブルドン男子決勝が不戦勝で勝敗が決したのは、後にも先にもこの年だけですが、ケガで不戦敗となった、ある有名なハリウッド女優の祖父にあたる選手は誰でしょうか?

正解はフランク・シールズ。彼は女優ブルック・シールズの祖父にあたります。4大大会のシングルスでは全米準優勝(1930)、ウィンブルドン準優勝(1931)、ダブルスでは全米準優勝(1932)、ミックスダブルスでは全米準優勝(1930)し、国際テニス殿堂入りを果たしています。シールズは1935年から38年まで俳優に転向、7作の映画に出演していますが、その後、テニス選手にカムバック。51年にはデビスカップの米国代表監督を務めています。アンドレ・アガシはブルック・シールズと交際中(二人は97年に結婚、99年に離婚)だった1994年に全米を初制覇。それは66年以来のノーシード選手の優勝となったが、30年全米のシールズの準優勝もノーシードだったことで当時、話題になりました。
フランク・シールズ 1931 Wimbledon Mens Singles Championship  Photo by Bob Thomas/Popperfoto via Getty Images/Getty Images

1985年、松岡修造は全仏オープン・ジュニアに出場し、1回戦で当時ブラジル国籍だった古庄大二郎と対戦しました。松岡が7-5、6-7、9-7で勝利しましたが、炎天下の白熱した試合途中、古庄が全身痙攣(けいれん)で倒れるアクシデント。この時、古庄が叫んだ言葉が彼の人生を変えることになります。何と叫んだのでしょうか。

正解はドント・タッチ・ミー!(ぼくに触らないで!)。全身痙攣に襲われた古庄は赤土のコートに倒れ、痛みでのたうち回り、汗で濡れたシャツは泥まみれになりました。驚いた関係者が駆け寄ると、両手を挙げて「触らないで」と叫んだ。当時、痙攣は怪我ではなく疲労と解釈され、第三者が選手の体に触れることは補助とみなされ、失格処分になりました。それを知っていた古庄は、痛みの底からそう叫んだのです。大二郎・エドワルド・古庄はブラジル・サンパウロ出身の日系三世で、松岡の1歳下の選手でした。日本テニス協会理事、当時の国際テニス連盟副会長だった川廷栄一氏がコートサイドでこの試合を見て「これぞ日本の魂」と感動。後に、飲料メーカーのスポンサーも用意して日本へのプロ登録変更を勧め、その後、古庄は日本代表としてデ杯に参加、強化コーチとして復帰後の伊達公子の活躍にも貢献することになります。
古庄大二郎(1990 SEIKO SUPER TENNIS)撮影:真野博正

1999年の全豪オープン2回戦で、アンナ・クルニコワ(ロシア)は31本のダブルフォールトを犯しながら勝利するという「離れ業」をやってのけました。その試合の相手は誰だったでしょうか?

正解は佐伯美穂(日本)。クルニコワは1-6、6-4、10-8で辛くも勝利しました。この前年、クルニコワはイーストボーン国際大会で親指を負傷、その影響でサーブのグリップを変える必要があり、以来、サーブの調子を崩し、この頃はイップスのような症状を呈していました。そのためダブルフォールト(DF)が急増、全豪2回戦では31本のDFを記録。にもかかわらず試合に勝ったので、世界中にニュースが打電されました。 この試合、編集子は現地メルボルンで観戦していました。試合が行われた2番コート(?)にはクルニコワ・ファンと思しき男性客ら多くの観衆がつめかけ、ほぼ満員。ファンたちはアンナに声援を送り続け、彼女がDFすればため息、ポイントを決めると、「Yeah!」と歓声をあげていました。佐伯にとっては完全なるアウェー。さぞや、やりにくかったことでしょう。 また、相手のDFが多いとリズムが狂うものらしく、佐伯は試合後、「フォールトが多かったのでサーブが読めなかった。ファーストサーブが突然入ってくることもあった」とその困惑ぶりを語っています。この日のクルニコワは身体が前に突っ込んでネットの白帯の下に引っかけるフォールトが多かった記憶があります。おそらくメンタル的な問題で打ち急いだり、トスが低くなる傾向があったのではないかと思いました。ただ、あれだけのDFをしながらナーバスになっている様子を見せることなく堂々とプレーしていた姿は印象的でした。 印象的と言えば、編集子が佐伯が小コートでインド系カナダ人選手のソニア・ジェヤシーランと戦っていた1回戦の試合を観戦していた時のこと。途中からクルニコワがコーチと思しき男性とやって来て、スタンドに座って次の対戦相手となるこの試合を偵察(?)していました。しかし、偵察に満足したのか、途中から持参した雑誌をパラパラめくり始めると、それを見た男性はほどなくしてクルニコワに声をかけ、二人はコートを離れました。次の対戦相手の試合を観客席で見ている選手を間近で目撃したのは初めてだったので、実に印象深い出来事でした。 クルニコワと佐伯の試合は、真夏の酷暑のロングゲームだっただけに、佐伯もクルニコワもかなり体力を削られたゲームになったのではないでしょうか。佐伯は敗れたとはいえ、クルニコワと互角のラリーを繰り広げ、見所の多い試合を見せてくれました。 因みに、クルニコワが記録した1試合で31本のDFはWTA(女子テニス協会)のワースト記録となっています(2023年10月現在)。
惜しくも敗れたが、相手のペースに乱されることなく戦った佐伯美穂 撮影:真野博正
「元祖・テニス界の妖精」と呼ばれたクルニコワ。その可憐なルックスで多くの男性ファンを魅了した 撮影:真野博正

電光ボードには二人のダブルフォールトの回数も表示された 撮影:真野博正

テニス関連メーカーで、世界で最も古い歴史を持つ企業はどこでしょう?

正解はバボラ社(フランス)。同社は1875(明治8)年にリヨンで創業。ピエール・バボラ率いるBabolat & Monnier(バボラ&モニエ)は、近代テニスのルールが確立された1874年の翌年、ナチュラルガットで作られたラケット用ストリングの開発に成功。これを機にバボラはラケットスポーツ(バドミントンとテニス)に特化した世界で最初の企業になりました。ナチュラルガットは羊、次いで牛の腸を使用、1925年には細い上に耐久性を飛躍的に高めたナチュラルガットVSを発売。以来、VSはナチュラルガットのスタンダードとしてその地位を確立していきます。その後もナイロンやポリエステルのハイスペックのストリングを開発し、多くのプロテニスプレイヤーの支持を集めています。1994年にはラケットの製造・販売にも着手し、同年に発売されたピュアドライブは大きな注目を集めます。ピュアドライブはアンディ・ロディック、アエロプロはラファエル・ナダルの使用ラケットとして忽ちベストセラーになり、一躍、ラケットメーカーとしての声価も高めました。因みに、2000年以降、世界で最も売れているテニスラケットはピュアドライブです。その後もテニスボール、シューズと商品開発の領域を広め、テニスの総合メーカーの世界的なトップ企業としての地位を確固たるものに。バボラは2025年、創業150周年を迎えます。
Babolatのガット製造職人(Babolat Official Website)
Baolat Pure Drive 1994(Babolat Official Website)
Rafael Nadal(Babolat Official Website)

BABOLAT HISTORY

1996年のウィンブルドン準決勝、伊達公子対シュテフィ・グラフ戦のインプレー中のこと。グラフがサーブのモーションに入ろうとしたところ、観客席の男性が“Steffi, will you marry me(シュテフィ、結婚してくれないか)?”と叫びました。すると、ちょっと間が空いてからグラフがその男性に向かって返事をしました。彼女は何と言ったでしょうか?

正解は、“How much money do you have ?(お金はどれくらい持ってるの?)”です。この試合は日本でも生中継されたので、このシーンを覚えているオールドファンも多いかと思います。観客から“プロポーズ”を受け、苦笑いを浮かべつつ当意即妙な返しをしたグラフに観客は拍手を送り、センターコートは柔らかな笑いに包まれました。この試合はグラフが第1セットを6-2、第2セットを伊達が6-2で奪い返して、セットオールになったところで日没順延、翌日再試合となり、第3セットは6-3でグラフが取り、勝利。この勢いに乗り、グラフがこの大会を制しました。緊迫した場面でこんな「アドリブ」ができるのも、「女王の貫録」といったところなのでしょうか?

 

Wimbledon Official Websiteより

ビッグサーブが武器だった松岡修造は、1985年の全仏オープンジュニアに出場、1回戦で古庄エドワルドを7-5、6-7、9-7の激戦の末下し、2回戦では大会第2シードで、後に世界ランク1位となるトマス・ムスター(オーストリア)と対戦。2-6、3-6で敗れましたが、その試合で柳川高校仕込みとされるワザを披露しました。どんなワザだったでしょうか。

正解はアンダーサーブ。松岡は1984年、慶応高校2年時にインターハイの常連校、柳川高校へ転校。その2カ月後、「ウィンブルドンへの道」と題された国内ジュニア大会へ出場し優勝。当時、日本テニス協会の藤倉五郎専務理事がジュニア育成の一環として夏の欧州遠征に取り組んでいました。優勝者の松岡は遠征メンバーに選出されたものの、インターハイの予選期間と重なり断念。インターハイでは単・複・団体の三冠を達成しています。翌年は休学して遠征に参加。その第一弾となった全仏ジュニアのムスター戦で、古豪柳川高仕込みとされるアンダーサーブを披露しました。同年の全仏ジュニアではダブルスにも出場、2歳下の辻野隆三とペアを組んでいます。松岡は帰国後に、古巣の桜田倶楽部(現・桜田倶楽部東京テニスカレッジ)を訪れたボブ・ブレッドに見出されて渡米し、プロの道へ進むことになります。

母親が全米オープンでベスト8になってから45年後、同大会でベスト8になった選手は誰でしょうか?

答えはテイラー・フリッツ。母のキャシー・メイ・フリッツ(旧姓・キャシー・メイ)は、アメリカ人の元テニスプレイヤー。世界ランキング最高位は10位、4大大会ではベスト8が3回(全仏2、全米1)、ベスト16が1回(ウィンブルドン)。WTAの大会でシングルス7回の優勝を果たしています。メイが全米でベスト8になったのは1978年、息子のテイラー・フリッツが全米でベスト8になったのが2023年。ご存じの通り、テイラーは2024年、全米で準優勝者となり、「母親超え」を果たしました。キャシー・メイはロサンゼルス近郊の高級住宅街ビバリーヒルズの生まれ。祖父のデビッド・メイは地域デパートを買収、売却、合併を行う持株会社、The May Department Stores Companyの創業者。同社は2005年、高級百貨店メイシーズに買収されています。キャシーは三度結婚し、三度離婚。テイラーは3人目の夫、ガイ・フリッツとの間に生まれました。ガイは元プロテニスプレイヤーで、後にジュニア選手のコーチに転身。息子のテイラーも指導し、2015年の全米オープンジュニアの優勝、2015年ITF(国際テニス連盟)ジュニア世界チャンピオンへと導きました。テイラーは2014年に母と共に初来日、大阪市長杯ワールドスーパージュニア選手権に出場し、優勝しています。
2014年、テイラー・フリッツ(左)は大阪市長杯世界スーパージュニアに出場するため母(右)と共に初来日、優勝を果たした 撮影:真野博正
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