2023ウィンブルドン・レビュー 1強時代の黄昏とジャバーの涙
男子決勝は16歳の歳の差対決
グランドスラムの光景は過去3年間異常だった。開催中止、日程変更、無観客……さらにはコロナウイルスのワクチンを打たない者が排除され、戦争を起こした国とその国を助ける国の選手が排除された。後者の措置を唯一とったのがウィンブルドンで、抗議するATP(男子プロテニス協会)とWTA(女子テニス協会)の対抗策により昨年はランキングポイントが付与されずに戦われた。これら異常事態の数々に、トップ争いに絡むような主役たちが大きな影響を受けた。
やっとウィンブルドンがウィンブルドンらしい姿に戻った2023年。しかし、長く続いた<ビッグ3>の時代は前年のロジャー・フェデラーの引退によって完全に終わり、それを追うように来季の引退を表明したラファエル・ナダルも、年初からの臀部(でんぶ)のケガを引きずって全仏オープンに続いてウィンブルドンを欠場した。
最高に感動的で刺激的だった時代の終焉をどんなに嘆いても、男子テニスは新しい時代へと確実に移りかわっていく。それがどんなものなのかを見極めるために、本来の姿に戻ったウィンブルドンはふさわしい舞台だっただろう。ビッグ3時代の支配力の強さをたった一人で体現するかのような長年の王者ノバク・ジョコビッチがいて、ポスト世代が挑む構図が出来上がっている。その若手の中でも最強の星が、すでに王者の椅子を得ているカルロス・アルカラスである。
ビッグ3同士のグランドスラム決勝は、2020年全仏のナダルとジョコビッチが最後で、以降は多くの有力な若手が決勝に駒を進めたが、ことごとくジョコビッチが巨大な壁となって立ちはだかった。ダニール・メドベージェフ、ステファノス・チチパス、マテオ・ベレッティーニ、ニック・キリオス、キャスパー・ルード……この3年、ジョコビッチが決勝で退けてきた20代、多くは20代前半の選手たちだ。2021年の全米オープンでメドベージェフに敗れたのが唯一の黒星だが、そのメドベージェフを今回アルカラスが準決勝で圧倒した。
ジョコビッチは21歳のヤニク・シナーとの準決勝でセットを与えず、最年長優勝とV8がかかった決勝へ。第1シードの20歳と第2シードの36歳の頂上対決。フェデラーもナダルもいないウィンブルドンで想定しうる最高のシナリオが実現した。
アルカラスは前年の全米で初のグランドスラム・タイトルも手にしたが、そこにジョコビッチはいなかった。ワクチン未接種で出場できなかったからだ。今年の全仏オープンでは準決勝での対戦を果たしたが、痙攣(けいれん)に見舞われたアルカラスは無念の逆転負けを喫した。 史上最年少の世界1位になってもなお、ファンは明確な世代交代劇の場面を欲していたに違いない。
年の差は正確に言えば15歳と348日で、これはグランドスラムの決勝戦での年の差対決としては史上3番目となる。なお、それを上回るのは1974年のウィンブルドンと全米の決勝を戦ったジミー・コナーズとケン・ローズウォールで、年の差は17歳と304日だった。いずれも若いコナーズが勝利し、世界1位の座を固めていった一方、当時39歳のローズウォールはその全米がグランドスラム最後の決勝進出となった。
このウィンブルドン決勝も世代交代の場面として歴史に刻まれるのだろうか。4時間43分のロングマッチを制したのはアルカラス。1986年のボリス・ベッカー以来最年少のウィンブルドン・チャンピオンとなった。
ヒール役を背負ってきたジョコビッチの新たな役回り
世代、世代とことあるごとに繰り返す記者たちに、20歳の新王者は言った。
「僕は自分のためにやったんだ。正直言って、テニスの世代とか関係ない。まだ全盛のノバクにこの舞台で勝って歴史を作ったこと、このコートで10年間ほとんど無敵だった彼を倒したことは、僕にとって最高の出来事だ」
ジョコビッチはアルカラスの強さをこう分析した。
「カルロスはロジャーとラファと僕のそれぞれの強みを兼ね備えている。加えて、20歳とは思えないメンタルの回復力は驚くばかりだ。闘牛のような闘争心と信じられない守備力、これは僕たちが長年ラファのテニスに見てきたものだけど、彼も同じものを持っている」
若いヒーローが絶対的王者を打ち負かし、新しい時代の到来を告げる———。この結果をそのように劇的に見ることもできるかもしれないが、ジョコビッチがこのまま引き下がるなど誰が想像するだろう。男女を通してのグランドスラム史上最多優勝記録を抜いて単独トップに立つまであと2つ、必ずまた大記録に迫るに違いない。 若いライバルの出現、そして限られた時間との戦い。 あまりの独壇場ではつまらないが、こうなるとジョコビッチのキャリア終盤への関心はこれまで以上にそそられる。
無敵、鉄人と恐れられ、フェデラーとナダルの2強時代に割って入った若い頃からずっとヒール役を背負ってきたジョコビッチの役回りにも、多少変化が起きそうな新時代の到来である。
2023ウィンブルドン 男子シングルス決勝
〇アルカラス 1-6、7-6(8-6)、6-1、3-6、6-4 ジョコビッチ
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女子決勝は43年ぶりの既婚者対決
上位2シードの頂上争いとなった男子に対し、女子は世界6位と42位の決勝戦。グランドスラムで女子のトップ2シードによる決勝対決は2018年の全豪オープン以降一度もなく、下位シードやノーシードのファイナリストが頻繁に決勝まで勝ち上がる。イガ・シフィオンテクが女王の座を1年以上守り、それを追う中ではアリーナ・サバレンカやエレナ・リバキナが抜けた存在感を見せてはいるが、いまだ幅広い層にチャンスがあるのが女子のフィールドだ。
今大会も、ノーシードのマルケタ・ボンドロウソバが上半身の奇抜なタトゥーを踊らせながら決勝に進出した。19年の全仏オープン・ファイナリストだが、ウィンブルドンではこれまで2回戦すら突破したことのない24歳だ。
決勝の相手は2年連続で決勝に駒を進めた第6シードのオンス・ジャバー。どちらが勝ってもグランドスラム初優勝というだけでなく、ボンドロウソバが勝てば初のノーシードからのウィンブルドン女王、ジャバーが勝てばアラブ人初のグランドスラム・チャンピオンという一戦には、43年ぶりの既婚者女性同士の決勝という側面もあった。前年の経験がものを言うだろうと予想された下馬評を覆し、勝ったのはボンドロウソバだった。
大舞台のここ一番で見せた強さは、生まれ育った土壌の力と結びついているのかもしれない。ウィンブルドン9回の優勝を誇るマルチナ・ナブラチロワは旧チェコスロバキアの出身(1975年にアメリカに亡命)で、ウィンブルドンで2度決勝に敗れた後、劇的優勝を遂げた故ヤナ・ノボトナもそうだし、現役の中にもV2のペトラ・クビトバや2019年ファイナリストのカロリーナ・プリスコバ、21年の全仏覇者バーボラ・クレイチコバらチェコの成功者は大勢いる。今回、出産後の復帰で見事ダブルス優勝を果たしたバーボラ・ストリコバともボンドロウソバは仲が良く、今年の全仏で準優勝したカロリーナ・ムチョバは同じクラブの出身だという。
準決勝後の会見でこんな話をしていた。
「チェコにはすばらしいプレーヤーがたくさんいて、お互いにサポートし合っている。パリではカロリーナの決勝の前に楽しんでと伝えたわ。負けてもすばらしい試合だったと思う。試合後は私も泣いちゃったけど」
アラブの期待を一身に背負うジャバー
一方のジャバーは、ずっと一人旅だ。「アラブ人初」の期待とプレッシャーを一人で背負っている。2011年のロランギャロスでアラブ人初のジュニアタイトルを獲得し、その10年後にはアラブ人初のツアータイトルを手にした。22年はウィンブルドンに続いて全米でも決勝に進出したが、リバキナとシフィオンテクにそれぞれ敗れた。
勝者よりも敗者が人心をつかむことはよくあり、今回の女子シングルスもそのケースだったのではないだろうか。ミスを量産し、自分のテニスを見失ったアラブの先駆者の涙にファンの心は傾いた。
「キャリアでもっともつらい敗戦。ここまで大変な道のりだったから。でもこれがテニス。またいつかここに帰って来て優勝してみせる」
瞼(まぶた)を指で押さえながら、オンコートのインタビューに応じた。
グランドスラムでの初めての決勝進出から3度以上続けて決勝で敗れた女子選手には、記憶に新しいところではシモナ・ハレプがいる。2000年代にはキム・クライシュテルスが3年の間に4度決勝で涙をのんだ。チェコのノボトナを一番に思い出す人も多いだろう。93年のウィンブルドンでは女王シュテフィ・グラフに逆転負けし、表彰式で準優勝プレートを手渡したケント公夫人の肩に顔を埋めて泣いた。夫人は「あなたはいつか勝ちますよ」と声を掛けたのだという。その言葉通り、ノボトナも、そしてクライシュテルスもハレプも、涙の数だけ甘く満ちたグランドスラムのクライマックスをのちに味わった。
しかし3度の準優勝に終わった例もある。09年には世界1位にもなったディナラ・サフィナや、90年代のメアリー・ジョー・フェルナンデスなどがそうだ。
キャサリン妃の慰めの言葉に目を潤ませていたジャバーに、ノボトナのシーンを重ねた人も多かったかもしれないが、ジャバーはこの涙を拭い去る成功をいつの日かつかめるだろうか。その歴史的快挙は、アラブ社会のみならず、世界の女性の自立と地位向上への貢献も自負する女子テニス界全体にとっても大きな意味を持つ。
2023ウィンブルドン 女子シングルス決勝
〇ボンドロウソバ 6-4、6-4 ジャバー
バナー写真:表彰式で涙をこらえながら準優勝のプレートを掲げるジャバー(上)。初優勝が決まり、コートに倒れこむアルカラス(下) 撮影:真野博正