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テニス名プレイヤー列伝

テニス名プレイヤー列伝 第2回 ビリー・ジーン・キング

2023.07.29 / 武田 薫(スポーツライター)

女子テニス界最大の功労者――コート内外で闘い続けた鋼の女王

テニスの全米オープンは2023 年、大きな節目を迎える。米国テニス協会(USTA)が4大大会の先陣を切って賞金の男女同額に踏み切ったのは1973年、ちょうど50年前の第93回大会のこと。それに先立つウィンブルドン開幕前、女子独自のツアーを運営する選手組合、女子テニス協会(WTA)が旗揚げされ、テニスは男子選手組合、男子プロテニス協会(ATP)との両輪で世界ツアーへと発展していった。

男子ツアーだけで、いまの世界的普及も繁栄もなかっただろう。その原動力がビリー・ジーン・キング、日本でも「キング夫人」の愛称で親しまれた女子テニス界のカリスマ的存在だ。

早くから興行化に成功したテニス界

テニスは19世紀後半に、英国の産業革命の繁栄の中で誕生した。前身のジュドポーム(jeu de paume)は、修道院の石廊で行われていた室内レジャーで、天然ゴムの発見=ゴムボールの誕生が蒼天下の芝へ導き、テニスを男女交際の機会としてのサマーゲーム に発展させた。古い絵画には、山高帽の紳士と一緒に、コルセットでウェストをきつく締め踝(くるぶし)までのロングスカートでラケットを振る淑女の姿が描かれている。

ウィンブルドン選手権の第1回は1877年、84年に女子シングルスがスタートし、88年に全英ミックスダブルス選手権が始まった。テニスの他競技にない特徴は、その起源から女性が参加し、男女共同参画でルールを築いてきたことにある。しかし、それはあくまでアマチュア時代の話で、プロの出現、まして客を集めての興行となれば男女の足並みは一つではなかった。

テニスはギリシャのアテネで開かれた第1回近代オリンピックから男女の単複が採用され(1896年)、第2回大会からミックスダブルスも行われた。1924年の第8回パリ大会で五輪と袂(たもと)を分かったのは、近代五輪を提唱したピエール・ド・クーベルタン男爵が掲げたアマチュアリズムの解釈と齟齬(そご)をきたしたためで、競技を生業とするコーチ、興行試合に出場するプロ選手を受け入れない舞台から離脱している 。プロ化が進んだ80年代に五輪種目として復活したということは、テニスが排除されたのではなく、むしろテニス側から積極的に離れた証左で、早くからの人気と隆盛を裏付けている。

普及~プロ化の流れは、しかし、1960年代にテニス界自体にも混乱をもたらした。オーストラリア勢の台頭がきっかけだ。当時のオーストラリアは南半球の彼方で、いったん海外遠征に出た同国の選手たちは本国との往来の負担が重く、米国を中心にしたプロサーキット参戦の道へ進んだ。一方で、ウィンブルドンを中心とした4大大会はプロの参加を認めず、ロッド・レーバー、ケン・ローズウォールら実力者は出場の道を閉ざされていた。アマとプロの実力は拮抗していたが、時代の流れは止められず、選手たちが行動を起こしてプロ容認を要求。4大大会は1968年の全仏からオープン化に踏み切り、賞金大会へと舵を切っていく。

格差を拒否した「1ドル契約」

オープン化に踏み切った最初のウィンブルドン(1968年)の優勝は、男子は6年ぶりに復帰したロッド・レーバー、女子は24歳のB.J.キングが3連覇を達成したが、賞金は5万ドルと7500ドルだった。当時、この格差にはそれほど違和感がなかったかもしれない。男女の組織だったツアーがスタートするのは70年代以降で、当時のプロ大会は南仏からイタリアのサンレモまで続く避寒地のクラブ主催、もしくは米国の大都市や避暑地を回るプロモーター主催の興行……女子にもスザンヌ・ランラン(フランス)のような人気選手はいたが、イベントは男子中心で、女子はベスト8以下には賞金も出ない前座扱いだった。賭け目的の“ハスラー”の世界を変えたのが、1970年代、キングの行動力だ。

旧姓はビリー・ジーン・モフィット。米国西海岸のスポーツ一家に育ち、少女時代は野球に熱中、大人に混じってソフトボールの遊撃手として活躍した。弟のランディ・モフィットはサンフランシスコ・ジャイアンツなどで活躍した大リーグの投手だ。11歳からテニスを始め、カリフォルニア州立大学在学中に1歳下のラリー・キングと結婚、19歳でウィンブルドン準優勝、22歳だった1966年から3連覇し、67年に全米、68年に全豪も制覇してオープン化前夜の象徴的存在となっていく。

いくら知名度が上がっても、例えばロサンゼルスで行われていた大会の賞金は男子の5万ドルに対し女子は7500ドル……女子選手の不満と疑問が膨らんだ。賞金問題という物質的要求に留まらず、女子テニスはつまらないという世間の評価への怒りが運動体を創出した。

1970年9月23日、キングを中心とした“オリジナル9”と呼ばれる9人が、ワールドテニス誌、フィリップモリス社と1ドル契約を結んで女子だけの大会を開催、この成功が女子サーキット大会のバージニアスリムス・シリーズへ発展、さらに1973年のWTAの旗揚げにつながっていった。

ビリー・ジーンは自信に満ち溢れていた。28歳で迎えた72年はキャリアのピークだったろう。全豪には出なかったが、全仏の初優勝で生涯グランドスラムを達成、ウィンブルドンで4度目、全米は3度目の優勝。ところが、全米の男子の優勝者イリー・ナスターゼの賞金2万5千ドルに対し、キングの賞金は1万ドルだった。「このままなら、来年はもう出場しない」と発言し、世論に格差是正を訴えた。70年代の米国社会には、それを聞く耳があった。

2023年ウィンブルドン女子決勝をロイヤルボックスで観戦するキング氏(前列右から2人目)。左隣はキャサリン妃 撮影:真野博正

決定打は「バトル・オブ・セックス」

近代史を振り返ると、大戦のたびに女性は強くなった。戦場で倒れ傷ついた男性に代わって女性の社会進出が促され、そうした変化は早くから女性の舞台だったテニスにも反映された。スザンヌ・ランランが膝下スコートの自在なプレーで驚かせたのは第一次大戦直後で、キングが躍動した60年代から70年代にかけてのアメリカもそれに似た状況だった。ベトナム反戦と公民権運動の波に女性解放の声が押し寄せた。“ウーマンリブ”という言葉は海を渡って日本の社会も揺るがせたが、キングの叫びは曖昧模糊(あいまいもこ)とした思想ではなく、プレー=賞金という具体的なゴールがあった。性差ではなくプレーヤーとして評価してほしい――世間の冷ややかな目にブレることなく立ち向かえたのは、比類のない実績の裏付けがあり、少女時代から抱いたスポーツへの愛情がなせる技だろう。

キングの叫びを象徴することになるのが、「バトル・オブ・セックス(性別間の戦い)」と銘打たれ、世界中が注目したボビー・リッグスとの男女対決だ。同額賞金を勝ち取った全米から間もない1973年9月のこと。

リッグスは1939年にはウィンブルドンの単複混合で優勝、全米も制した戦前のトップ選手だった。戦後はプロとして活躍しつつ、賭博テニスで知られ、黒い噂も飛んでいた。55歳になった73年、「女子テニスはレベルが低い」としきりに煽(あお)り、キングに挑戦状を突き付けた。金目当てを見透かされて断られると、1970年に年間グランドスラムを達成していたマーガレット・コートとの対戦を5月の“母の日”に実現し、6-2、6-1で圧勝。この結果に、キングは立ち上がった。

マーガレット・コートがその年の全米覇者だったことも、強い決意の裏にはあったはずだ。9月20日、勝者総取りの10万ドルを賭けた5セットマッチがテキサスで組まれ、キングが6-4、6-4、6-3のストレートで勝った。衛星でテレビ中継され、全米で5千万人、世界37カ国で9千万人が試合を見たと言われ、キングの勝利は女子ツアーの新たな地歩を固めた。

「私の勝利がどれだけ私の評判を高めたかよく承知している。ウィンブルドンやフォレスト・ヒルズに優勝しただけでは決して充分に得られなかった信用を私は得た。」(『センターコートの女王』より)

「テニスには次がある」

四半世紀に及んだ競技生活で、彼女はグランドスラムでシングルス12回、ダブルス16回、ミックスダブルス11回、合計39のメジャータイトルを手にしている。男女同権をコートに実現させ、キングがテニスコートから社会へ発信したメッセージは大きい。社会がテニスを変えただけでなくテニスも社会を変えたのだ。

ビリー・ジーンの強さを物語るもう一つのエピソードがある。同性愛のカミングアウトだ。WTAが軌道に乗り始めた81年春、かつて付き合っていた同性愛の相手から訴訟問題が起きると、キングは周囲の反対を押し切って自ら記者会見を開いて関係を認めた。米国でも同性愛に強い偏見のあった時代だが、「常に自分に正直であれ」という親の教えに従ったと言う。

夫ラリーと共に裁判を乗り切り、夫が主催したワールド・チームテニスの普及に協力し、それでも、87年には正式に離婚する。ラリーの再婚先の息子をわが子同然に可愛がり、2018年にはダブルスパートナーと同性結婚している……。彼女の人生はまっすぐ、ブレない鋼(はがね)の意思で貫かれている。

米国の都市チームで構成されるワールド・チームテニスはいまも行われている。キングは常々、シングルスよりダブルスの重要性と、団体戦の楽しみを訴えてきた。女子の国別対抗戦、かつてのフェデレーション・カップが2020年にビリー・ジーン・キング・カップと名称を改めたのも、その主張を反映させたものだ。

スピード、俊敏、闘志、上昇志向……キングの強さはそれだけだろうか。

1983年、エキシビションで来日した折に、一つだけ質問したことがある。空港に急いでいた彼女はラケットを小脇に歩きながら「手短にね、何を聞きたいの」と言った。

「どうして野球が好きなのですか」

彼女は意外な表情で立ち止まり、丁寧に答えてくれた。

「テニスには“次”がある。ポイント、セカンドサーブ、ゲーム、デュース、タイブレーク、次のセット。負けても次の大会がある。野球には次はないの。そのスリルが魅力なのよ。これでいい?」

ウィンブルドンは2022年のロシアによるウクライナ侵攻に抗議して、ロシアとベラルーシの選手の出場を拒否した。キングは2023年の大会に向け「彼らにも稼ぐチャンスを与えるべきだ」と口火を切った。ATP、WTA、ITF(国際テニス連盟)も同調し、ウィンブルドンは措置を撤回した。

相手を許し、自分のミスを許し、次を模索する……。

ビリー・ジーン・キングは、男女の社交の場で育ったテニスの美徳を現実生活に引き寄せ、多くのファンを呼び寄せた、まさにレジェンドである。

バナー写真:1973年、ウィンブルドンのシングルス、女子ダブルス、混合ダブルスを制し、3冠を獲得したビリー・ジーン・キング。掲げているのは女子シングルス優勝のプレート。テーブルにあるのはダブルスのトロフィー Photo by Harry Dempster/Express/Hulton Archive/Getty Images

 

 

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