2024全仏オープン・レビュー 「ポスト・ナダル」を巡る赤土の地殻変動
「赤土の帝王」最後?の戦い
全仏オープンはグランドスラムの中でもっとも“人間的”なトーナメントだ。自動線審化が進む中、今でも唯一審判補助としてのホークアイも導入せず、際どいボールは主審が椅子から下りて行ってボール痕からアウトかインの判定をする。また、天気に合わせて コートキーパーはコートに水を撒き、土を均(なら)す。これらは時代を超えて守られてきたクレーコート・テニスの「絵」の一部だ。
コートで戦っているのも支えているのも、機械ではなく人間なのだという理念。人間のやることには間違いが生まれるが、大会中に1回か2回起こるかもしれない過ちのために、クレーテニスの本質を変えてまで多額の費用をかけたテクノロジー導入が合理的だとは考えないのだろう。センターコートを開閉式屋根付きに改修せざるをえなかったように、いつかは世界の主流に抗(あらが)えなくなるのかもしれないが、伝統に対する敬意と自負には尊さを覚える。
そんなローランギャロスで愛され続けた赤土の帝王、全仏14回制覇のラファエル・ナダルが、37歳の終わりに迎えた今大会、初めて1回戦で敗れた。今季限りの引退も示唆し、これが最後となる可能性の高い中、1回戦の相手が第4シードのアレクサンダー・ズベレフとはあまりに酷なドローだったが、最後の相手にふさわしい運命的なカードでもあった。
ズベレフは2年前の同じ場所でナダルとの激闘の最中に転倒して足首に大ケガを負い、それから半年間コートに戻れなかった。対戦はその準決勝以来だ。立場は変わり、敗戦後のナダルは少し寂しい笑みを浮かべて言った。
「ローランギャロスで、自分が下に見られる1回戦って妙な気分だったよ。この2年間、もう一度ここに戻ってくることを夢見てがんばってきて、少なくともそれは叶った。もっと戦えるだけの準備をしてきたけど、しょうがない。今日はあれ以上のプレーはできなかったと思う」
時代の終着点に交わった27歳のズベレフは、その責任を全うするかのように全仏初の決勝へと勝ち進んだが、新たなヒーローにはなりきれなかった。初のメジャータイトルの前に立ちはだかったのは、少年の頃から「ナダルの後継者」と目されていた21歳のカルロス・アルカラスだ。19歳で全米オープン、20歳でウィンブルドンを制し、史上最年少の1位にもなったアルカラスは、これで早くもグランドスラムで3つの異なるサーフェスを制覇したことになる。男子で史上6人目、そしてナダルが達成したときの22歳7カ月より18カ月若い最年少記録でもあった。
白いアームサポーターで覆った右の上腕は大会前からの懸念材料だったが、その不安から、「以前のようにフォアハンドのすべてを全力で打つことをしない」という新たなメソッドを自然に導き出した。だからといって、唸(うな)るようなフォアハンドの威力に翳(かげ)りはない。精度の高いドロップショットに、ウィンルドンで証明したネットプレーも随所で繰り出し、 準々決勝で2021年ファイナリストの25歳、ステファノス・チチパスをストレートで退け、準決勝では全豪チャンピオンのヤニック・シナーとのフルセットを制した。
ローランギャロス第2章への期待
この終盤戦の顔ぶれは完全な世代交代を表している。ノバク・ジョコビッチが準々決勝を前に右膝のケガで棄権した時点で、シナーは週明けのランキングでの初の1位を確定し、アルカラスとのバトルは偉大なライバルの系譜を引き継ぐ二人の未来を映して眩(まぶ)しかった。アルカラスが対戦成績を5勝4敗としたが、「ヤング・ジョコビッチ」とも呼ばれるほどの鉄壁を誇るシナーとの4時間マッチで受けた身体的ダメージは否めない。再びのフルセットマッチとなったズベレフとの決勝は、ナダルに代わる新王者として認められるための試練だった。第4セットで2回、ファイナルセットでも1回、トレーナーがやってきたが、痙攣(けいれん)の兆候にも耐え、セットカウント1-2からの逆転勝ちで新たな時代の幕を開けた。
特筆すべきは、アルカラスの第5セットでの勝率の高さだ。
「5セット目にエクストラの力が出せてこそトップの選手だと思う。すごいショットを打って、どこまでも走って、相手に僕はまだ元気だということを見せつけるんだ。そのためにはメンタルも強くないとね。当たり前だけど、第5セットに強くなければグランドスラムは獲れない」
そういえばジョコビッチも5セット目には強く、キャリア成績40勝11敗だが、今大会の3回戦と4回戦で続けてフルセットを戦った後、膝の状態が悪化して棄権を決めた。37歳になったジョコビッチが1大会に5セットを2試合連続で強いられた経験は、2012年に2度あるが、準々決勝より前となると、これが初めてである。前哨戦でも30位台や40位台の選手に敗れ、今年はまだツアータイトルを一つも獲れていない。フランシスコ・セルンドロとの4回戦で打ち立てたグランドスラムのマッチ370勝の史上最多記録は、若い風が巻き上げた土煙に霞み、パリを離れたジョコビッチはすぐに膝の手術に踏み切った。両手に杖を抱えた状態から、今年の大きな目標の一つだというオリンピックに間に合わせることができるだろうか。
ナダルとアルカラスがダブルスを組むことでも話題のオリンピック。同じローランギャロスを舞台に、また別のドラマが繰り広げられる。
2024全仏オープン 男子シングルス決勝
〇アルカラス 6-3、2-6、5-7、6-1、6-2 ズベレフ
◇
ベストマッチは大坂対シフィオンテク
ナダルの穴をどうにか埋めたいテニスメディアは、女子サイドにも23歳でV4を狙うイガ・シフィオンテクにその役割を強引気味に重ねてきた。「うれしいし、そうなりたいと思うけれど、遠く及ばない」と毎回謙遜するしかないシフィオンテクだったが、19歳での初制覇から5年の間に早や4度目の優勝を実現させた。
唯一それを阻止できたかもしれなかったのは、2回戦で対戦した大坂なおみだった。最終セット、5-2とリードを広げた大坂にはマッチポイントもあったが、シフィオンテクがこれを覆して5ゲーム連取の底力を見せた。この新旧女王対決が期待をはるかに上回る女子のベストマッチとなったのは、産後復帰後まだツアーでベスト4にも進めていない大坂の、苦手のクレーコートでの化け具合によるものだったに違いない。大坂が大物相手の大舞台に今なお強いことが証明され、女王への復活の可能性をまだ信じていいのだと力をくれるような試合だった。克服困難だったクレーでの足のさばきをポジティブに「ダンスのよう」とたとえてみせた大坂の思考は、チャンピオンのテニスを蘇らせる第一歩だったのかもしれない。パワフルなショットで際どいコースを臆さず攻め抜き、エースの数もウィナーもシフィオンテクをはるかに上回り、トータルポイントでさえ勝った。
シフィオンテクはこの一戦を乗り越えたことで完全にスイッチが入り、フットワークとスピードを武器に弱点のないテニスを存分に発揮し、見ていてつまらないほどの強さで勝ち進んだ。4回戦では41位のアナスタシア・ポタポワにダブルベーグル(6-0、6-0)をつけ、続く準々決勝で昨年のウィンブルドン女王のマルケタ・ボンドロウソバにさえ2ゲームしか許さなかった。昨年の全米オープンでグランドスラム初制覇を果たしたココ・ガウフとの準決勝も難なく突破。最後は28歳にしてグランドスラム初のベスト8入りから一気に決勝まで快進撃を伸ばしたジャスミン・パオリーニを6-2、6-1で寄せつけず、既定路線を外れることなくトロフィーを抱いた。
期待を膨らませる復活女王と天才少女
試合の面白さの程度でボーナスポイントでももらえるなら大坂のランキングは目に見えて上がっただろうが、実際は大会前の134位から125位へと微動したにすぎない。それでも、夏のハードコート・シーズンへ向けた期待値の高さは大会前と比較にならず、大坂自身の意識も頼もしかった。
「コートから出て少し泣いちゃった。でも、去年、彼女が優勝するのを私は大きなお腹で見ながら、またイガと試合をすることを夢見ていたことを思い出したわ。あまり自分を責めないようにする。私はハードコート育ちで、今日は彼女のほうが得意なサーフェスだったんだから。次、私の一番得意なコートでやるのを楽しみにしている」
大坂がトップ争いに再び加われば、置き去りになっていたいくつかのライバル物語がまた動き出すのではないか———。アシュリー・バーティーがすでに引退してしまったことは残念だが、大坂がメジャー初制覇を果たした2018年の全米オープンで一度対戦したきりのアリーナ・サバレンカとの再戦も興味が湧くし、この2年でビッグ3と言われるまでに躍進したエレナ・ルバキナとの初対戦の日も待ち遠しい。ココ・ガウフとの因縁のストーリーも続きがあるはずだ。今のトップの顔ぶれに大坂が絡むだけでドラマチックな展開が予見されるのは、好むと好まざるとにかかわらず大坂自身が多くのドラマを持っているからだろう。
シフィオンテクはこれで今季ツアー5勝で、全仏以外も全てWTA1000のビッグタイトルばかりだ。通算のグランドスラム・タイトルは22年の全米オープンも合わせて5つ目となり、決勝に進めば100%の勝率を誇る。これまでの決勝の相手は全て異なり、ファンが喜ぶハイレベルのライバル争いに至らない。この先強力なライバルになると思う選手はいるか、という質問に、シフィオンテクはいつも通り当たり障りなく答えた。
「これまでだってアリーナやココ、エレナとたくさん試合をしてきた。ロジャー、ノバク、ラファのようなわかりやすいライバル関係ではないけれど。彼女たちの内の誰って言われるとわからないかな。それとはまた別の選手が現れるかもしれないし」
名前を挙げた中でシフィオンテクが唯一負け越しているのは2勝4敗のルバキナだが、名前を出さなかった選手の中に4戦全敗を喫している相手がいる。17年の全仏チャンピオンのエレナ・オスタペンコだ。当たり出したときの強打は手がつけられないが、今大会も2回戦敗退と好不調の波の激しさがトップ10に定着しない原因だ。
サバレンカには8勝3敗と大きく勝ち越しているが、この2年間のグランドスラムでの安定感だけ見ればサバレンカに軍配が上がる。22年の全米オープン以降、全豪での2連覇を含めて6大会連続でベスト4以上に進出した。そのサバレンカを今大会、準々決勝で撃破したのが17歳のミルラ・アンドレエワだ。自己最高の23位に浮上し、着実にトップへの階段を登る天真爛漫な少女に、まだシフィオンテクへの挑戦のチャンスは訪れておらず、「別の誰か」の候補の一人であることは間違いない。
一強状態はスリルに欠ける。復活女王と天才少女がコートに吹き込む風に、淡い期待を抱いた春のパリだった。
2024全仏オープン 女子シングルス決勝
〇シフィオンテク 6-2、6-1 パオリーニ
バナー写真:優勝が決まった瞬間、コートに倒れ込んで咆哮するアルカラス(上)、表彰式でトロフィーを掲げ満面笑みのシフィオンテク(下) 撮影:真野博正