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テニス名プレイヤー列伝

テニス名プレイヤー列伝 第6回 クリス・エバート

2024.02.28 / 武田 薫(スポーツライター)

勝率は驚異の9割:強靭なメンタルを持った“アイスドール”

1980年代に、ちょっと不思議なブームがあった。リサ・ボンダーというアメリカの女子選手が人気になり、当時、5誌あったテニス専門誌の表紙を次々に飾った。全仏オープンでベスト8、世界ランク最高9位の記録を持つ選手ではあるが、本人も首を傾げたほど日本で絶大な人気を獲得した。美人というより、ホームドラマに出てきそうな愛らしさが受けたのだろう。日本中でテニスクリニックを開き、どこも大盛況だった。そのせいか日本では成績がよく、ツアー4勝の内の3勝が東京。特に彼女が狂喜したのが1983年に東京で行われたクイーンズ・グランプリだ。第1シードのクリス・エバートを7-5、4-6、6-4で破り、アン清村、ベス・ハー、キャシー・ホーバス、アンドレア・イエガーといった、オールドファンには懐かしい面々に勝って優勝した。

毅然としてぶれない自立した女性像

当時のエバートは世界ランク2位、この日は体調が悪かったのか、気分が乗らなかったのか。ボンダーに負けたのはこの1度だけで、通算対戦成績は7勝1敗。次の東京の対戦では6-0、6-0のダブルベーグルを食らわせたあたりが、いかにも“アイス・ドール(氷の人形。表情をほとんど変えることがないプレースタイルから名付けられたニックネーム)”らしかった。

毅然としてぶれない――クリス・エバートは強いアメリカを象徴する、自立した女性像だった。遅れて登場するマルチナ・ナブラチロワのような自己主張の強さはないが、女々しさは微塵もなく、数字がその強靭なメンタルを物語る。

1971年の全米オープンから89年の全米までの19年間にグランドスラムで18回優勝。その数より内容だ。メジャーでの通算成績は299勝37敗(勝率89%)、34回の決勝進出もさることながら、出場56大会で1、2回戦負けが一度もない。3回戦負けすら2回だけで、準決勝以上が52回、93%の4強進出率を誇った。男女を通じてツアー1000勝に一番乗り、勝率はオープン化以降最高の90%(1309勝146敗)。眩(まぶ)しげに顎(あご)を少ししゃくって微笑むクリッシーのどこに、強さが潜んでいたのか。

1982年の全米オープンで6回目の優勝を飾り、トロフィーを頭上に掲げるエバート T.Nakajima/Mannys Photography

フロリダ生まれ、父親はプロのコーチで、文字通りのテニス一家に育った。5歳でテニスを始め、当時はまだ少なかった両手打ちのバックハンドだった。徹底してベースラインから打ち込み、ミスの少なさとクレバーな配球・試合運びで、たちまち頭角を現した。同時代人で3歳上になる沢松和子は、最も印象に残る選手としてエバートを挙げている。「ミスのなさ、鉄のような意思の強さに歯が立たなかった」という。75年に全仏、ウィンブルドンで立て続けに対戦、ともに2-6、2-6で敗れている。75年と言えば、沢松がウィンブルドンのダブルスで優勝し、日本中が大騒ぎになった年だ。

16歳以下のナショナルチャンピオンとして招待参加した71年の最初の全米オープンで、6本のマッチポイントをしのいで準決勝に進み、ビリー・ジーン・キングに敗れた。そのキングを先頭にWTA(女子テニス協会)が旗揚げされたのが1970年で、最初の女子ツアーが誕生したのが翌71年。エバートはまさにプロ化の申し子としてテニスシーンに登場した。

クレーコートでの圧倒的な強さ

メジャー初優勝が74年の全仏だったように、クリスのプレースタイルはクレーコートに合った。クレーコートに限っての勝率は94.28%で、ローランギャロスの通算優勝7回はラファエル・ナダルが更新するまで男女を通じての最高記録で、通算72勝6敗。ただし、「4大大会」と押しなべて言うのは今世紀に入ってからのことで、海外の移動の交通事情の違った時代、全豪オープンはきわめてローカルな大会だった。クリスは6回出場し、優勝2回、準優勝4回。全仏は3度欠場している。

19歳で初優勝した74年、同じ全仏の男子を制したのがやはり初優勝で18歳のビヨン・ボルグだった。76年から始まったボルグのウィンブルドン5連覇の期間、クリスも聖地で4度、決勝にコマを進めている。ボルグとジョン・マッケンローらアメリカ勢の激闘の傍らで、クリスは清楚な佇(たたず)まいでナブラチロワの壁になっていた。テニスの世界的な人気をドラマチックに形作った貴重な存在であり、女子テニスを男子に伍して発展させた最大の功労者の一人と言うことができるかもしれない。

正確なコントロールが武器のエバートは球足が遅い赤土のコートを得意にしており、全仏オープンでは7回の優勝を誇る(1982French Open) T.Nakajima/Mannys Photography

キングに続きナブラチロワが同性愛のカミングアウトで話題になる中、エバートはストレートな恋多き、ゴシップ雀を賑わせる女性であり続けた。

1974年のウィンブルドンを制したのは、21歳のジミー・コナーズと19歳のクリス、ともに初優勝だった。ロンドンのタブロイド紙はもっぱらこの2人のヒーローの熱い関係を追いかけた。2人は婚約し、その年の10月8日の挙式日程まで明らかにしていたが、ロマンスは長続きせず挙式は中止。翌年には婚約を解消。謎めいたブレークゲームは驚きをもって受け止められた。後にコナーズが自伝でエバートの妊娠&中絶を暴露し、クリスは反論している。

真相はともかく、多くのテニスファンはマシーンのようにひたすらベースラインで打ち続けるクリスに味方し、クリスも応援に応えて75年から全米4連覇を達成、74年から13年連続でメジャータイトルを取り続けた。そして、アッと驚かせたのが、78年に発覚したイギリスのジョン・ロイドとの交際、そして79年の結婚。ロイドはイギリスのナンバーワン選手だったとはいえ、ツアー優勝は1回だけの地味な存在。それでもクリスは嬉しそうにクリス・エバート・ロイドと名乗った。

いまや装飾品のブレスレットにはミサンガなど多種多様あるが、その中で最も豪華なものが「テニスブレスレット」だ。ダイヤモンドを繋いだ腕輪で、この名前の由来はクリス・エバートということになっている。1987年の全米オープンの試合中に、クリスが付けていたブレスレットが切れてダイヤがコートに散らばりプレーが中断された。試合後の会見で「テニスブレスレットが」と発言したのが語源だという。しかし、この伝説には疑問も異論もある。

テニスブレスレットそのものは1920年代に登場し、この装飾品が脚光を浴びたのは70年代だった。宝飾界がエバートの美貌と人気にあやかって提供したのが78年の全米オープン。クリス自身、「事件」はその年の早いラウンドでの出来事だったと記憶しているようだが、そこにすら物語がある。そのブレスレットはコナーズのプレゼントだったとも言われ、78年と言えば、前述したようにロイドとの交際が露見した時期。さらに、その年は全米の会場がフォレストヒルズから現在のフラッシングメドウに移った年である。すなわち、ダイヤモンドはクレーコートではなくハードコートの上に散らばった。どの場面設定がクリスにとって、テニスブレスレットにとって相応しかったか。ヒーローは常にたくさんのストーリーを提供するものだ。

ナブラチロワは終生のライバル

鉄の意志を持ったプレイヤー、己の意志の赴くままに生きている。ロイドとは87年に円満離婚し、88年、元プロスキーヤーのアンディ・ミルと再婚して3人の息子をもうけたが、06年に離婚。2年後、今度はプロゴルファーの「ホワイトシャーク」ことグレッグ・ノーマンと再婚して世界を驚かせた。この結婚生活も1年余りで破局に至っている。思ったことをやる、信念を貫く――プレースタイルに直結した偽りのないクリスの生き方は、嫌みのない雰囲気を醸し出し、多くのファンを引き付けた。

ソウル五輪(1988年)に帯同した当時の夫、元アルペンスキー選手のアンディ・ミル氏(奥)が見守る中、練習コートでストレッチをするエバート 撮影:真野博正

プレースタイルも性格も対照的だった終生のライバル、ナブラチロワとの対戦成績は37勝43敗。クリスにとってマルティナは単なる宿敵ではなかった。エバートはグランドスラムのダブルスで3回優勝しているが、2回はナブラチロワとのペアによるもの。24年に入ってからは2人の連名で、LGBTQ(幅広いセクシュアリティの総称)を認めないサウジアラビアでのツアー最終戦開催に反対を表明している。

2023年の12月、クリスは自らの癌の再発と手術を受けたことを公表した。

「メルボルンに行けないのは残念ですが、その後は大丈夫です。皆さん、家族を信じ、自分を信じましょう。早期発見が大事ですよ」

自分を信じる、ぶれないレジェンドは、今もアメリカの誇りだ。

バナー写真:美貌と気品のあるプレースタイルで人気が高かったエバートと、イタリアのスポーツアパレルメーカー、エレッセとの長期にわたるウェア契約は同社のブランディングに大きく寄与した(1982 French Open)T.Nakajima/Mannys Photography

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