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テニス名プレイヤー列伝

テニス名プレイヤー列伝第5回 ピート・サンプラス

2024.02.20 / 武田 薫(スポーツライター)
ウィンブルドンでは1997年から2000年までの4年連続を含め、計7回の優勝を誇る(1998 Wimbledon)撮影:真野博正

90年代に君臨した究極のオールラウンド・プレイヤー

1980年代は地殻変動が凄まじかった。ベルリンの壁の崩壊は89年だが、欧州大陸は既に欧州経済共同体(EEC)から欧州連合(EU)結成へと動きだし、テニス界では時代の変化に敏感な若者たちがラケット1本で国境を跨(また)ぎ始めていた。85年の全仏オープンでソ連のアンドレイ・チェスノコフが3回戦へ、87年のウィンブルドンでは同アレクサンドル・ボルコフが4回戦まで勝ち上がって、西側メディアは色めき立った。88年ソウル大会からのテニスのオリンピック競技復帰は「国の威信」という古い価値観をも刺激して、ソ連のみならず東欧諸国はこぞって選手をツアーへ送り込んだ。

ビヨン・ボルグが醸(かも)し出したクラシックなテニスブームを、ジミー・コナーズとジョン・マッケンローが奔放にかきまわし、新素材の強化ラケットを持ったベッカー、エドバーグが登場……60年代のWCT(World Championship Tennis)から始まったプロツアーは、試行錯誤の挙句、80年代に入って選手組合、男子プロテニス協会(ATP)と国際テニス連盟(ITF)との共同機関、男子国際プロテニス評議会(MIPTC)により運営されていた。大西洋を挟んだライバル対決は衛星放送に乗って人気を煽(あお)り、日本を拠点にアジア市場の開拓も進んで賞金は高騰……金が動けば人も動き、ATPは89年の全米オープン期間中にMIPTCからの独立を宣言した。

新時代の扉を開いた米国の四銃士

新時代の幕開けと共に、アメリカの“四銃士”が産声を上げた。アンドレ・アガシ(70年4月生まれ)、ジム・クーリエ(70年8月生まれ)、ピート・サンプラス(71年8月生まれ)、マイケル・チャン(72年2月生まれ)。中心はアガシだった。

アガシは西海岸では相手不足とフロリダに渡り、ニック・ボロテリーの全面的な支援を受けて16歳でプロデビュー、17歳でツアー初優勝、18歳の88年には6勝して年末ランキング3位に駆け上がった。しかし、最初にメジャーを制したのはアジア系の小柄な少年、マイケル・チャンだ。89年全仏でレンドル、エドバーグを倒し、17歳3カ月の優勝。しかし、それは新時代の単なる幕開けに過ぎなかった。

1990年の全米オープンほど、若々しく華やかにショービズのメッカを興奮させた大会もないだろう。第1シードのエドバーグがボルコフに敗れる波乱の幕開け。女子決勝で褐色のガブリエラ・サバティーニが黒髪を躍らせてシュテフィ・グラフを倒し、男子決勝は長髪をバンダナでまとめたアガシ、やせぎすのサンプラスによるアメリカ対決になった。下馬評は圧倒的に全仏で決勝までコマを進めた第4シードのアガシ。サンプラスはウィンブルドンで2年連続の初戦敗退だったが、4回戦でトマス・ムスターを倒して勢いに乗ると、準々決勝でレンドル、準決勝でマッケンローを倒し、一気にアガシをも葬った。19歳28日の優勝は大会最年少記録で、そこから10年に及ぶ「アメリカの時代」が始まる。その中心にいたのはサンプラスだった。

クーリエが翌91年、全仏の初優勝に続き、92年には全豪初優勝、全仏連覇、これにアガシのウィンブルドンで念願のメジャー初優勝が連なる。93年はクーリエが全豪連覇を達成。続いてサンプラス時代が狼煙(のろし)を上げる。サンプラスはウィンブルドン決勝でクーリエを倒して初優勝すると、全米で2度目の優勝。その年からウィンブルドンの7勝を含め8年連続でメジャータイトルを手にし、6年連続の年末ランキング1位、レンドルの連続記録(270週)を破って286週トップに君臨した。

SAMPRAS,Pete(USA) US Open1993 USTA Billie Jean King National Tennis Center NEW YORK U.S.A. Photographer / Hiromasa MANO (mannys@mannysjp.com)
次第に少数派になりつつあった片手バックハンド・ストロークなど、フェデラーらに大きな影響を与えた(1993 US Open) 撮影:真野博正

ロッド・レーバーがお手本

サンプラスの武器は盤石のサーブを起点にしたオールラウンド・プレーだ。身長185㎝と際立った高さではなかったが、やや前方へ高く上げるトスに覆いかぶさるように打ち下ろす破壊力に、スライス、キックサーブを打ち分ける技術、無駄のない滑らかなフォームからの安定したセカンドサーブはエースを奪うこともできた。力感のない自然なネットダッシュは、60年代に世界を席巻したロッド・レーバーを手本にしたと言われ、流れるようなサーブ&ボレーが聖地ウィンブルドンの芝に映えた。

父親の転職でロサンゼルス郊外に移った7歳から、パロスヴェルデスの自宅近くのジャック・クレイマー・テニスクラブでテニスを始め、元々バックハンドは両手打ちだった。トレーシー・オースチンのコーチとして知られるロバート・ランスドープからフォアハンドを学び、クラブで指導していた小児科医でテニスマニアのピーター・フィッシャーがバックハンドを片手打ちに変えた。肩の回転から腰へのスムーズな動きがレーバーに似ていると、将来のウィンブルドン攻略を念頭にサーブ&ボレーを体得させた。ただ、サーブ&ボレーは少年の体力では十分に機能しない戦術だ。ジュニア時代に際立った成績を残していないのはそのためで、最年少記録の全米優勝からでさえ、プレースタイルが熟すまでさらに2シーズンかかっている。

「サービスエースは時速200㎞のスピードだけで取れるものではない」

フィッシャーはトスを上げさせ、声をかけた地点でサーブを打つ練習を繰り返した。サンプラスはその声に瞬間的に反応し、同じモーションからキック、スライス、フラットを打ち分けることができたという。サンプラスのサーブが「大砲」ではなく「ピストル」と呼ばれたのもそのためだ。

完璧過ぎるテニスがウィンブルドンを変えた

ここを通せば打ち返せない……テニスには、針の穴を通すような1本のラインがある。プロたちは戦いながらそのラインを模索するが、それがテニスの極意かと言えば、それは別な話だ。94年のウィンブルドン決勝の相手はビッグサーバー、ゴラン・イワニセビッチだった。

気温30度を超す暑さの中で、2人は時速200㎞超のサーブを叩き込み合った。サンプラスのエースが17本、イワニセは25本。リターンはネットを越えず、ラリーらしいものがないまま、見せ場は第1、第2セットのタイブレークぐらい。その2セットをサンプラスが奪ったところでイワニセが切れて、第3セットは6-0。せっかくの最終日が1時間55分の「サーブ練習」になり、史上最もつまらない決勝とまで言われた。

最適解が支配するテニスは退屈なものだが、それを面白くするのが人間の知恵でもある。翌年、ウィンブルドンは「球速を抑えるために芝の品種を変え、丈を長めに刈り、ボールは内圧を低くし柔らかくなった」と選手たちは話していた。芝のサーフェスに留まらず、球足が遅めのハードコートも開発されるようになる。サンプラスの完璧がテニスを変えたのだ。

SAMPRAS,Pete(USA) WIMBLEDON 1999 WIMBLEDON LONDON UK Photographer / Hiromasa MANO (mannys@mannysjp.com)
時速200km超のサーブはことにウィンブルドンで威力を発揮した(1999 Wimbledon) 撮影:真野博正

2000年、パトリック・ラフターを退けてウィンブルドンで最後になる通算7度目の優勝を達成した試合後、サンプラスは主審に握手を差し伸べた。歓喜の涙を拭うと客席を大きく見回した。その頃にはもう試合に来ることのなくなっていた両親が、この日は一般席に来ていたのだ。興奮する観客の波を父子がかき分け、固く抱き合う姿に、時代を切り開く仕事の重さと抱える重圧が伝わってきた。ジュニア時代には古いフォルクスワーゲンのヴァンを駆って大会に同行した父親は、全米初優勝の前にそれを止めていた。

「ピートのテニスのため他の子供たちは犠牲を払った。前年、ヨーロッパの4大会について行った。どれも1回戦で負けた。ピートはもう立派な大人だ、親の助けはいらないと思った」

両親はギリシャからの移民、熱心なギリシャ正教の一家に育った。ライバルたちも、それぞれが全く異なるルーツの家系で育っている。アガシの父はイラン(アルメニア系)からの移民で、アガシはカジノの本場ラスベガスで育ち、チャンはアジア系(両親はともに台湾からの移民)らしい忍耐強さで肉体のハンディを乗り越え、開放的なフロリダの陽光を浴びて育ったフランス系のクーリエはフランス語を流ちょうに操る……それぞれの家系で育まれた個性を発揮し、アメリカが21世紀への新たな道を築いた。

無敵、不敗、完璧――95年の全豪は衝撃だった。クーリエとの準々決勝の試合中、大粒の涙を拭いながらプレーを続けた。89年からのコーチ、ティム・ガリクソンが大会中に倒れ、米国に緊急搬送されていたからだ。6―7、6-7から逆転したが、決勝ではアガシに敗れ、ガリクソンは脳腫瘍で翌年、帰らぬ人となった。

時代の転換点となったフェデラーとの対戦

全米初優勝から10年が過ぎ、ミレニアムに沸いた2001年のウィンブルドン4回戦、ロジャー・フェデラーとの初めての対戦が象徴的によみがえる。

サンプラスは29歳、同じ8月生まれで10歳下のフェデラーは19歳で、その年のミラノ室内でツアー初優勝したばかりだった。3度目のウィンブルドン挑戦で初勝利をつかんで4回戦まで勝ち上がり、初めてのセンターコートに立った。7-6、5-7、6-4、6-7、7-5。3時間40分の激闘の末、フェデラーがきれいなリターンエースを決めた。その瞬間、長い髪を後ろでまとめた若者は芝に転がり、慌てて立ち上がり、握手に駆け寄り、ベンチで顔を覆った。夢のようだっただろう。ウィンブルドン4連覇、31連勝中だった「芝の帝王」を射止めたのだ。それまで、聖地での5度の5セットマッチで負けたことのなかったサンプラスは肩を落とし、こう話した。

「コートのロジャーはまるで自分を見ているようだった。力みがなく、感情を高ぶらせることもなく、バックハンド、サーブ、非の打ちどころがない完璧なオールラウンド・プレイヤーだ」

やがて、サンプラスの記録を塗り替える8度の優勝でウィンブルドンの新帝王となるフェデラーは、それまでは怒りに任せてラケットを投げ、コートに叩きつける激情型の若者だった。サンプラスとの最初で最後の対戦が、彼のプレースタイルを決定的に変えた。その日の会見で、ロジャーはこう話している。

「満員のウィンブルドンのセンターコートでピート・サンプラスと試合をしながら、叫んだり、ラケットを放り投げたりできるわけがない」

偉大な2人の運命的な対戦を境に、テニスはフェデラーの時代へ、やがてラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチを迎えての3強時代へと向かったのだ。

SAMPRAS,Pete(USA) WIMBLEDON 2001 WIMBLEDON LONDON UK Photographer / Hiromasa MANO (mannys@mannysjp.com)
2001年のウィンブルドン4回戦でフェデラー(中央)に敗れ、センターコートの去り際、観客にお辞儀をするサンプラス(右) 撮影:真野博正

サンプラスは翌02年の全米オープンでアガシを倒し、メジャー通算14勝の記録を最後に、静かにコートを離れた。グランドスラムの最初の優勝も、最後の優勝も全米オープンで相手はアガシだった。2人の対戦成績は20勝14敗。グランドスラムではサンプラスが6勝3敗。6勝6敗の五分で迎えた最後の決勝対決で勝ち越した。

「アンドレはかつてのボルグとマッケンローのように、お互いにとってかけがえのない存在だった。アンドレという素晴らしい才能のライバルを得たことで、ぼくはここまで成長できたと思っている」

テニスは常に完璧を求め、変わり続ける。ピート・サンプラスは新たな時代を作り、次の時代を引き出した偉大なチャンピオンだった。

バナー写真:ウィンブルドンでは1997年から2000年までの4年連続を含め、計7回の優勝を誇るサンプラス(1998 Wimbledon)撮影:真野博正

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