REVIEW

映画・ドラマ・ドキュメンタリー評

大坂なおみドキュメンタリー「ピープルズ・チャンピオン」

2023.12.28 / 山口奈緒美(テニスライター)

次代の絶対女王君臨が確信されていた時期に制作された豪州産ドキュメンタリー

大坂のピーク時、2021年の軌跡

母となった26歳の元女王・大坂なおみが、1年3 カ月ぶりにコートに戻って来る。出産から5カ月半での復帰の舞台は、シーズン幕開けを告げる真夏のオーストラリア。まずは2023年12月31日に開幕するブリスベン国際、そして、3年前に自身4度目のメジャー制覇を果たした全豪オープンに挑む。

振り返れば、大坂が表彰台で微笑んだ場所はあの2021年の全豪オープンが最後になったままだ。その全豪での軌跡を振り返るドキュメンタリー番組が、テニス・オーストラリア(オーストラリアテニス協会)が制作した「ピープルズ・チャンピオン」である。日本語版はWOWOWの制作で2022年に放送された。

パワフルで直感的なテニス、人々を楽しませるユニークなワードやフレーズ、強さと脆(もろ)さが背中合わせの人間らしさなど、大坂なおみというスターの魅力が、30分足らずのノンフィクションの中に凝縮され、ジャーナリストやコメンテーターたちが発する大坂評も当然ながら礼賛に満ちている。
「セリーナ・ウィリアムズやシュテフィ・グラフのような絶対女王が新たに現れるなら、大坂をおいて他にいない」
「選手としても人としても特別な存在。テニス界から世界を変える女子プレーヤー」
「世界に目を向け、与えられた場で自分のすべきことを考え、行動に移すことができる人間」

2021年全豪オープン2回戦のキャロリン・ガルシア戦に勝利した後、オンコート・インタビューを受ける大坂なおみ(中央) 撮影:真野博正

賞賛の言葉は、大坂の全盛時、多くの者たちが信じていたことだ。しかし今聞けば、ややはやりすぎた感や見誤った感も否めない。全豪の優勝で幕を上げた2021年は、全仏オープンでの会見ボイコット騒動、うつの告白、ウィンブルドンの欠場、全米オープン3回戦敗退後のツアー離脱……と陰鬱なムードで進んだ。東京オリンピックで聖火リレーの最終ランナーを務めたことすら、肝心のコートでの結果が3回戦敗退に終わったせいか印象が薄い。大坂のテニスへのモチベーションは懐疑的になり、持ち上げられてきた「人間らしさ」や「ユニークさ」や「行動力」はたちまち批判の対象となった。

連覇がかかった2022年の全豪オープンも3回戦止まりで、全仏オープンは1回戦敗退、ウィンブルドンは2年連続で欠場した。表向きはアキレス腱のケガということだったが、大会がロシアとベラルーシの選手を排斥したことに端を発してランキングポイントが付与されない事態となったことが明らかに影響していた。

「ポイントがないならエキシビションと同じ」とランキングへの執着をのぞかせていた大坂だが、ポイントの稼ぎ時であるはずの夏の北米ハードコートシーズンも、4大会に出場して1勝4敗と散々な結果に。さらに、3年ぶり開催の東レパンパシフィック・オープンに前回チャンピオンとして帰って来たものの、2回戦の直前になって腹痛を理由に棄権した。1回戦の対戦相手、ダリア・サビルが試合開始早々に負傷するアクシデントで途中棄権したため、大会の目玉だった大坂が日本のファンの前でプレーしたのはたったの1ゲームである。それから3カ月あまりのち、妊娠という電撃ニュースが流れた。結局、コートで戦う大坂の姿を見たのは、有明コロシアムでのあの1ゲームが最後だ。

「大衆の王者」「愛されるチャンピオン」

番組が制作されたときと今では、大坂の立ち位置も世間のイメージも随分変わってしまった。「ピープルズ・チャンピオン」というタイトルには、あの頃の大坂を取り巻くムードと期待がよく表れている。「大衆の王者」「愛されるチャンピオン」といった意味合いの呼称だが、ウィキペディアにもその項目が存在し、かつてそう呼ばれたことのある人物、主としてアスリートの名前が列挙されている。そこにテニスプレーヤーの名前はないし、女性の名前もない。

そう認知されていない大坂にこの称号を重ねたのは、番組内での一人の女性ジャーナリストのコメントからインスピレーションを得たものだろうか。
「私が感じるに、ナオミ・オオサカは“ピープルズ・チャンピオン”です。皆が彼女に共感する。多くのトップアスリートが人々との間に壁を作って自分の弱さやエゴを隠そうとする中、なおみは人間性を見せてくれます。それが最大の強みになることを若い時期から理解していました」

大坂なおみ(2021年全豪オープン) 撮影:真野博正

テニス界、特に女子テニス界はセリーナ・ウィリアムズの時代の終わりに際して、新たなチャンピオンを探し求めていた。かつての絶対女王とは異なる、新たな女王像だ。大坂は、その生い立ちから“多様性”のシンボルでもあり、型破りで、来るべき時代にふさわしい価値があった。

もし大坂がこれ以上テニス界で何もなさずに消えてしまえば、「ピープルズ・チャンピオン」のグループに名前が加わることはないだろう。一時的なイメージや幻想ではなく、彼女は真の「ピープルズ・チャンピオン」になりうるのか。母としての第2のチャプターに、その可能性はまだ潜んでいるかもしれない。

12月上旬、拠点のロサンゼルスで公開練習を行った大坂は、その後メディアにこのように語ったという。
「娘に世界を見せてあげたい。今は彼女のためにプレーしているように感じる」
「自分のために」ではない何かをモチベーションにしたときの大坂は強かった。いつも「予想外」「奇想天外」なことで世界を驚かせ、メディアを振り回してきた大坂である。シーズンの開幕に、ちょっと危険な楽しみが一つ加わることは間違いない。

バナー写真:2021年全豪オープン2回戦に勝利し、ラケットを掲げてスタンドの観客の歓声に応える大坂なおみ 撮影:真野博正

※本記事に掲載の写真は2021年全豪オープンから編集部がピックアップしたもので、番組の映像とは必ずしもリンクしていません。

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