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編集者コラム「晴庭雨読亭日乗」1 望月少年の思い出

2023.12.03 / 長池達郎(テニス偏愛編集者)

「晴れた日には庭球(テニス)をし、雨の日には読書する」毎日が理想の生活と夢想する編集子が徒然なるままにテニスにまつわることについて書き連ねるコラム。第1回は「望月少年の思い出」。

「天才少年」との邂逅

個人的なことで恐縮だが、今から11年前の2012年、私の息子が横浜市で行われたジュニア大会の小学生の部に出場した。当時、息子は9歳。テニス歴は4年足らずで試合に出始めたばかりだった。1回戦は相手が欠場したためWO(ウォークオーバー)で不戦勝。2回戦は1回戦を6-0で勝ち上がってきた選手との対戦になった。

対戦相手はやや小柄で、線が細い印象を受けたが、サーブ練習などウォームアップの様子を見ていると、場慣れしているのを感じた。試合が始まるとそのステディなテニスに驚かされた。ストロークは深く、ほとんどミスをしない。サイドの打ち分けもしっかりできていて、つないで相手のミスを待つのではなく、どんどんライン際を狙って果敢に攻めてくる。ネットにも頻繁に出てきて、ボレーもうまい。

「お主、できるな」。そう内心つぶやいた。

この試合、息子がブレークポイントを握る場面もあったが、0-6で敗戦。完敗だった。息子より一枚も二枚も上手だったその相手は、試合が終わると、私の所に来て、「ありがとうございました」と言って丁寧にお辞儀をしていった。強い上に、きちんとしたマナーも心得ている。親御さんと指導者の躾と指導が行き届いているなあといたく感心した。

ほどなくして試合会場に来ていた息子が通うテニススクールの知り合いのお母さんが近づいてきて、こんなことを教えてくれた。

「あの子は“天才テニス少年”と言われてテレビに出てた(※未確認)子なんですよ」

「どおりで上手いわけだ!」と応じたが、その話を聞いて俄然、その少年に興味を抱くようになった。息子と同年代で、将来、ビッグな選手になるかもしれない彼の名前を憶えておこうと思ったのだ。

その少年の名前は望月慎太郎といった。

結局、望月少年はその大会はベスト8まで勝ち進み、準々決勝で敗退している。後に望月慎太郎君は息子よりも1歳年下だと判明した。ということは、彼は当時、8歳で小学2年生。小学6年生も出場している大会で、小2でベスト8はなかなかの成績。何よりも小2にして精度の高いストロークにボレー、スピンのきいたサーブが打てる完成度の高いテニスをすることが驚きだった。

「望月ウォッチャー」の日々

以来、彼のことが気になって、ウォッチするようになった。ウォッチと言ってもその後、彼のプレーを生で見る機会は一度もなく、ジュニア大会の戦績表をチェックするだけの“浅い”ウォッチャーなのだが、望月少年が順調にステップアップしていくのを興味深く追った。ほどなくして慎太郎君は神奈川県、そして関東のトップジュニアに名を連ね、全国大会にも出場し、上位進出も果たすようになった。

2012年の時点では、横浜市のYSCというテニススクールに在籍していたが、その後、IHSMレニックス、元プロテニスプレイヤーの吉田友佳さんが主宰するTeam YUKA(いずれも横浜市)に籍を移している。こうした情報は関東テニス協会開催の大会のリザルトに掲載された所属先を見て知ったのだが、おそらくそれらのスクールはいずれも望月選手の自宅からはそこそこ距離があると思われるので、通うのはそれなりに大変だったのではないだろうか。本人が一人で、もしくは兄姉と電車を乗り継いで通っていたのか、親御さんが車で送迎されていたのか、週に何日通っていたのかは不明だが、遠距離移動であったことは推定される。その苦労を克服できたのは、テニスにかける本人の情熱、その夢を理解し、応援してくれた親御さんの多大なサポートあってのことだろう。

第32回全国小学生テニス選手権で3位となった望月慎太郎(2014/07/30) 撮影:真野博正

ウォッチャーとして把握しているマニアックな戦績としては、川崎市テニス協会が主催する「川崎市民総合体育大会テニストーナメント小学生・中学生テニス大会の部」の優勝がある。同大会は川崎市在住か、川崎市内のテニススクール在籍者限定の小さな大会だが、その記念すべき第1回(2011年)の小学生の部の栄えある優勝者が望月慎太郎君だった。関東テニス協会のジュニアランキングのポイントも付かない超ローカルな大会に出場したのは、地元川崎市への愛着からなのではないだろうか。

ウィンブルドンジュニア優勝の衝撃

2014年には、かつて錦織圭も参加していた松岡修造氏の「修造チャレンジ」のトップジュニアキャンプの強化メンバーにも選ばれた。そして12歳の時には錦織や西岡良仁、内山靖崇も選ばれた「盛田正明テニス・ファンド(以下、盛田ファンド)」の奨学生に選出された。盛田ファンドとは、ソニー創業者の一人である盛田昭夫氏の弟で元ソニー副社長の盛田正明氏が設立した有望な若手テニス選手のための育成基金。選抜されるとアメリカのIMGアカデミーに派遣され、現地で指導を無償で受けられる。

奨学生選抜のニュースに接した時は正直驚いた。というのは、錦織は2001年、内山は2004年、西岡は2007年に全国小学生テニス選手権に優勝しているが、慎太郎君は2014年のベスト4が最高で、2015年はベスト8。同年代を圧倒する成績は収めていなかったからだ。盛田ファンドのセレクションは要件を満たしたジュニアから公募、その中から国内とアメリカで選考会を実施の上、奨学生が選ばれるというシステム。この厳正なるセレクションを慎太郎君がクリアしたということは、ファンドのコーチングスタッフは彼の類稀な将来性を見出していたのだろう。

2019年の全仏オープン開催期間中、ロランギャロスを訪れた盛田正明氏(中央)と再会した望月慎太郎(左) 撮影:真野博正

盛田ファンドのコーチたちの慧眼が証明されたのは、その4年後のこと。2019年、日本選手初となるウィンブルドンジュニアの男子シングルス・チャンピオンとなったのだ。同年の全仏ジュニアでもベスト4に入賞しており、日本人男子選手として初めてジュニア世界ランキング1位となった。錦織も西岡も成し遂げることのできなかったジュニアの頂点への到達は、まったく予想だにしなかったので、ウィンブルドンジュニア優勝とジュニアランキング世界一のニュースには本当に驚くと同時に、「あの少年が世界一か」と感慨深いものがあった。

2019ウィンブルドンのジュニアの部で優勝、表彰式で優勝カップを頭上に掲げる望月慎太郎 撮影:真野博正

停滞期とジャパンオープンでの覚醒

しかし、順調すぎるほど順調に歩んでいた望月選手はそこから停滞期に入る。ジュニアからシニアツアーに戦いの舞台を移したが、同い年のカルロス・アルカラスが2022年に全米オープンを制し、ATP(男子プロテニス協会)世界ランク1位になったのとは対照的に、ATPツアーの下部大会のチャレンジャーツアーで苦戦が続き、ATPツアーの予選突破もままならない。チャレンジャーには世界ランク100位以内の選手とそん色のない実力を持つ選手も多く、層が厚い。ここをブレークスルーするのは至難の業。錦織選手が故障からの復帰戦でチャレンジャー大会に出場してフルセットの末に辛勝したり、敗れたりする試合をご覧になった方も多いと思うが、元ATPトップ10の選手であっても完調でないと簡単には勝たせてくれないのがチャレンジャーの厳しさだ。

望月選手がプロに転向した19年から23年10月16日までの約4年間、ATPツアーの本戦に出場できたのは7大会、グランドスラムの本戦が1大会。世界ランクは最高で192位だった。転機となったのは、23年10月の木下グループ・ジャパンオープン(以下、ジャパンオープン)だ。綿貫陽介、島袋将と共にワイルドカード(主催者推薦枠)を得て本戦出場を果たしたが、1回戦でトマス・マルティン・エチェベリを下し、ついにATPツアー本戦初勝利。2回戦では、昨年の覇者で第1シードのテイラー・フリッツを破る大金星を挙げるや、準々決勝ではアレクセイ・ポプリンを下し、ベスト4に進出。準決勝ではアスラン・カラツェフに敗れたが、この破竹の勢いの快進撃で世界ランクは一気に131位までジャンプアップした。

この大会の望月選手の試合はテレビでしか見ていないが、そのアグレッシブなプレーは鮮烈だった。サーブ&ボレーを効果的に使い、度々、2ndサーブでサーブ&ボレーをするという大胆なトライも敢行した。ストロークはライン際への仕掛けが早く、ライジングショットを多用する速攻型のカウンター攻撃もはまった。また、チャンスがあればどんどんネットに出てボレーでポイントを決めた。

元々、ネットプレーは上手な選手だったが、ボレーはさらに磨きがかかり、自信を持ってネットに出、ボレーで着実にポイントが取れるようになり、ネットに詰めるスピードに鋭さが増した。上半身に力感がない柔らかなタッチのボレーは実に滑らか。フェデラーのボレーを彷彿とさせる。

男女を問わず、グランドスラムジュニアのチャンピオンがシニアツアーで思うような活躍ができずに消えていった例も少なからずあるので、望月選手の「停滞」を憂慮していたが、ジャパンオープンの活躍はとてもうれしい出来事だった。

2023年ジャパンオープンで躍動。ネットプレーが冴えた 撮影:真野博正

8歳時の望月少年

この望月選手の活躍を見て、「そう言えば、息子との試合はビデオに撮っていたから、久しぶりに見てみよう」とふと思い立ち、ダビングしたDVDを引っ張り出した。

そこに映っていた息子の懐かしい姿にも引きこまれたが、ここは慎太郎少年の姿を凝視する。印象的だったのがそのプレーの質の高さだ。改めて繰り返すが、彼はこの時、わずか8歳。きれいな弧を描くやや高軌道のストロークは深く、左右に打ち分けられ、返球が浅ければすかさずライン際を狙ってくる。この年代はバックハンドが苦手な選手が多いことを見越してか、バックに集める狙いが透けて見えるが、オープンスペースができれば逆サイドに思い切りよく打ち込んでくる。

ディフェンス力も高い。足が速い上にフットワークが良く、身体能力の高さもうかがえる。身長以上に高く弾むボールも難なく返せる。ラリーでは主導権を握ることが多いが、コーナーに攻め込まれても中ロブを使ったり、状況に応じて何とか返そうとする。簡単にはあきらめない。容易にポイントを取らせないことで相手にプレッシャーをかけ、長いラリーになればなるほど相手のミスを誘発する戦いができている。

ベースラインの内側に入ってチャンスをうかがい、どんどんネットに出てくるのも特徴。この年代では異例と言ってよいほどボレーの回数が多く、ミスが少ない。ミスするとしても、それはライン際を狙い過ぎてサイドラインを割るケースがほとんど。

また、印象的だったのは2ndサービス。きれいな放物線を描くスピン系のサーブなのだが、軌道は一定していて安定感があり、ミスしそうな感じがしない。実に素晴らしいサーブだ。この試合、ダブルフォールトは2本のみだった。

リターンでは毎回、スプリットステップを行い、相手のサーブに応じて対応を自在に変えられる。フラット系の速いサービスにはブロックリターンを使い、2ndサーブが甘ければ肩ぐらいの高さから思い切りよく叩き込んでリターンエ―スが取れる。相手の1stが入らないと、素振りをするのがルーティーン。コートチェンジ時の休憩時間には時折、自分のフォームのチェックを行うなど、その落ち着きぶりはなかなか堂に入ったものだ。

とにかく基本に忠実でミスが少なく、ストロークにもボレーにも長けたオールラウンダーというのが8歳時の望月少年の姿。現在のプレースタイルの原型がもうこの時期にできていたことが分かる。

今後の活躍に期待

一気にブレークしたジャパンオープン後、ATPのチャレンジツアーに参戦している望月選手だが、ポイントは大きく伸ばせないでいる。シドニー、松山、神戸で行われたチャレンジャー大会では、ベスト8、ベスト16、ベスト8。23年11月27日現在でランキングは136位。ジャパンオープン直後よりわずかだが、ランクを落としている。

前述したように、チャレンジャーは層が厚い。元ATPランク100位以内の選手も出場する。一度、ATP本大会でベスト4に入ったからといって、その勢いで簡単に勝たせてくれる舞台ではない。望月選手にはまだまだチャレンジャーの厚い壁が立ちはだかるかもしれない。それだけ厳しく過酷な世界に彼は身を置いているのだ。

ただ、着実に力をつけているのは事実。ATPトップ10の選手(フリッツ)にも勝てる潜在能力があることは、ジャパンオープンの活躍でも証明された。今後の課題はフィジカルの向上か。ジャパンオープン準決勝では、カラツェフに3-6、4-6で敗れたが、前3試合に比べ、ややプレーに精彩を欠いた。

カラツェフがこのところ調子を上げていて、有明の速いコートに合っていたという側面はあったものの、望月選手のパフォーマンスが落ちていた印象は拭えなかった。ATP本戦を3試合続けて戦ったのは初めての経験であり、肉体的・精神的疲労の蓄積があったことは想像に難くない。ましてやネットプレーを多用し、小柄でリーチの短い選手は運動量の負荷が大きい。これから5セットマッチのグランドスラムを戦う上でもフィジカルの向上は必須。あとは各ショットの精度を少しずつ上げていけばいい。

2023ジャパンオープン2回戦のフリッツ戦でポイントを決め、雄叫びをあげる望月慎太郎 撮影:真野博正

彼はまだ20歳。これから地道に努力を続ければ、いずれATPランク100位以内に入り、グランドスラムの予選を戦わずとも、本戦にストレートインする日が来るだろう。そうなる日を長い目で温かく見守っていきたい。今や希少性の高いネットプレーをどんどん行う慎太郎選手のプレーは見ていて楽しい。彼のATPツアー、グランドスラムでの活躍を楽しみにしているテニスファンは少なくないだろう。

バナー写真:2014年全国小学生テニス選手権出場時の望月慎太郎 撮影:真野博正

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