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トリビアクイズ

テニス トリビアクイズ

2024.06.23 /

1931年に行われたウィンブルドン男子決勝は、とある選手の足首のケガのためシドニー・ウッド(米国)の不戦勝となりました。ウィンブルドン男子決勝が不戦勝で勝敗が決したのは、後にも先にもこの年だけですが、ケガで不戦敗となった、ある有名なハリウッド女優の祖父にあたる選手は誰でしょうか?

正解はフランク・シールズ。彼は女優ブルック・シールズの祖父にあたります。4大大会のシングルスでは全米準優勝(1930)、ウィンブルドン準優勝(1931)、ダブルスでは全米準優勝(1932)、ミックスダブルスでは全米準優勝(1930)し、国際テニス殿堂入りを果たしています。シールズは1935年から38年まで俳優に転向、7作の映画に出演していますが、その後、テニス選手にカムバック。51年にはデビスカップの米国代表監督を務めています。アンドレ・アガシはブルック・シールズと交際中(二人は97年に結婚、99年に離婚)だった1994年に全米を初制覇。それは66年以来のノーシード選手の優勝となったが、30年全米のシールズの準優勝もノーシードだったことで当時、話題になりました。
フランク・シールズ 1931 Wimbledon Mens Singles Championship  Photo by Bob Thomas/Popperfoto via Getty Images/Getty Images

1985年、松岡修造は全仏オープン・ジュニアに出場し、1回戦で当時ブラジル国籍だった古庄大二郎と対戦しました。松岡が7-5、6-7、9-7で勝利しましたが、炎天下の白熱した試合途中、古庄が全身痙攣(けいれん)で倒れるアクシデント。この時、古庄が叫んだ言葉が彼の人生を変えることになります。何と叫んだのでしょうか。

正解はドント・タッチ・ミー!(ぼくに触らないで!)。全身痙攣に襲われた古庄は赤土のコートに倒れ、痛みでのたうち回り、汗で濡れたシャツは泥まみれになりました。驚いた関係者が駆け寄ると、両手を挙げて「触らないで」と叫んだ。当時、痙攣は怪我ではなく疲労と解釈され、第三者が選手の体に触れることは補助とみなされ、失格処分になりました。それを知っていた古庄は、痛みの底からそう叫んだのです。大二郎・エドワルド・古庄はブラジル・サンパウロ出身の日系三世で、松岡の1歳下の選手でした。日本テニス協会理事、当時の国際テニス連盟副会長だった川廷栄一氏がコートサイドでこの試合を見て「これぞ日本の魂」と感動。後に、飲料メーカーのスポンサーも用意して日本へのプロ登録変更を勧め、その後、古庄は日本代表としてデ杯に参加、強化コーチとして復帰後の伊達公子の活躍にも貢献することになります。
古庄大二郎(1990 SEIKO SUPER TENNIS)撮影:真野博正

1999年の全豪オープン2回戦で、アンナ・クルニコワ(ロシア)は31本のダブルフォールトを犯しながら勝利するという「離れ業」をやってのけました。その試合の相手は誰だったでしょうか?

正解は佐伯美穂(日本)。クルニコワは1-6、6-4、10-8で辛くも勝利しました。この前年、クルニコワはイーストボーン国際大会で親指を負傷、その影響でサーブのグリップを変える必要があり、以来、サーブの調子を崩し、この頃はイップスのような症状を呈していました。そのためダブルフォールト(DF)が急増、全豪2回戦では31本のDFを記録。にもかかわらず試合に勝ったので、世界中にニュースが打電されました。 この試合、編集子は現地メルボルンで観戦していました。試合が行われた2番コート(?)にはクルニコワ・ファンと思しき男性客ら多くの観衆がつめかけ、ほぼ満員。ファンたちはアンナに声援を送り続け、彼女がDFすればため息、ポイントを決めると、「Yeah!」と歓声をあげていました。佐伯にとっては完全なるアウェー。さぞや、やりにくかったことでしょう。 また、相手のDFが多いとリズムが狂うものらしく、佐伯は試合後、「フォールトが多かったのでサーブが読めなかった。ファーストサーブが突然入ってくることもあった」とその困惑ぶりを語っています。この日のクルニコワは身体が前に突っ込んでネットの白帯の下に引っかけるフォールトが多かった記憶があります。おそらくメンタル的な問題で打ち急いだり、トスが低くなる傾向があったのではないかと思いました。ただ、あれだけのDFをしながらナーバスになっている様子を見せることなく堂々とプレーしていた姿は印象的でした。 印象的と言えば、編集子が佐伯が小コートでインド系カナダ人選手のソニア・ジェヤシーランと戦っていた1回戦の試合を観戦していた時のこと。途中からクルニコワがコーチと思しき男性とやって来て、スタンドに座って次の対戦相手となるこの試合を偵察(?)していました。しかし、偵察に満足したのか、途中から持参した雑誌をパラパラめくり始めると、それを見た男性はほどなくしてクルニコワに声をかけ、二人はコートを離れました。次の対戦相手の試合を観客席で見ている選手を間近で目撃したのは初めてだったので、実に印象深い出来事でした。 クルニコワと佐伯の試合は、真夏の酷暑のロングゲームだっただけに、佐伯もクルニコワもかなり体力を削られたゲームになったのではないでしょうか。佐伯は敗れたとはいえ、クルニコワと互角のラリーを繰り広げ、見所の多い試合を見せてくれました。 因みに、クルニコワが記録した1試合で31本のDFはWTA(女子テニス協会)のワースト記録となっています(2023年10月現在)。
惜しくも敗れたが、相手のペースに乱されることなく戦った佐伯美穂 撮影:真野博正
「元祖・テニス界の妖精」と呼ばれたクルニコワ。その可憐なルックスで多くの男性ファンを魅了した 撮影:真野博正

電光ボードには二人のダブルフォールトの回数も表示された 撮影:真野博正

テニス関連メーカーで、世界で最も古い歴史を持つ企業はどこでしょう?

正解はバボラ社(フランス)。同社は1875(明治8)年にリヨンで創業。ピエール・バボラ率いるBabolat & Monnier(バボラ&モニエ)は、近代テニスのルールが確立された1874年の翌年、ナチュラルガットで作られたラケット用ストリングの開発に成功。これを機にバボラはラケットスポーツ(バドミントンとテニス)に特化した世界で最初の企業になりました。ナチュラルガットは羊、次いで牛の腸を使用、1925年には細い上に耐久性を飛躍的に高めたナチュラルガットVSを発売。以来、VSはナチュラルガットのスタンダードとしてその地位を確立していきます。その後もナイロンやポリエステルのハイスペックのストリングを開発し、多くのプロテニスプレイヤーの支持を集めています。1994年にはラケットの製造・販売にも着手し、同年に発売されたピュアドライブは大きな注目を集めます。ピュアドライブはアンディ・ロディック、アエロプロはラファエル・ナダルの使用ラケットとして忽ちベストセラーになり、一躍、ラケットメーカーとしての声価も高めました。因みに、2000年以降、世界で最も売れているテニスラケットはピュアドライブです。その後もテニスボール、シューズと商品開発の領域を広め、テニスの総合メーカーの世界的なトップ企業としての地位を確固たるものに。バボラは2025年、創業150周年を迎えます。
Babolatのガット製造職人(Babolat Official Website)


Baolat Pure Drive 1994(Babolat Official Website)
Rafael Nadal(Babolat Official Website)
BABOLAT HISTORY

1996年のウィンブルドン準決勝、伊達公子対シュテフィ・グラフ戦のインプレー中のこと。グラフがサーブのモーションに入ろうとしたところ、観客席の男性が“Steffi, will you marry me(シュテフィ、結婚してくれないか)?”と叫びました。すると、ちょっと間が空いてからグラフがその男性に向かって返事をしました。彼女は何と言ったでしょうか?

正解は、“How much money do you have ?(お金はどれくらい持ってるの?)”です。この試合は日本でも生中継されたので、このシーンを覚えているオールドファンも多いかと思います。観客から“プロポーズ”を受け、苦笑いを浮かべつつ当意即妙な返しをしたグラフに観客は拍手を送り、センターコートは柔らかな笑いに包まれました。この試合はグラフが第1セットを6-2、第2セットを伊達が6-2で奪い返して、セットオールになったところで日没順延、翌日再試合となり、第3セットは6-3でグラフが取り、勝利。この勢いに乗り、グラフがこの大会を制しました。緊迫した場面でこんな「アドリブ」ができるのも、「女王の貫録」といったところなのでしょうか?

 

Wimbledon Official Websiteより

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